人気ブログランキング | 話題のタグを見る

両子の林家

fhayashi.exblog.jp
ブログトップ
2006年 06月 11日

林家の歴史

 これから始まる文章(連載計30回)は、平成18年 3月14日に執筆した「両子林家の歴史及び先祖に関する一考察」を、その後に撮影した写真とともに、このブログ「両子の林家」に掲載しなおしたものである。 滝口 俊介(旧姓・林)

    壱 両子林家歴代の章

1 両子林家の歴史及び先祖について

  写真 二段に組んだ林家の石垣林家の歴史_d0069627_1530884.jpg
 林家(初代より三代位迄本林姓を使う)の口伝で先祖は赤穂浪士の頭領・大石内蔵助良雄(ヨシタカ・元播州赤穂浅野家の国家老)縁の者が両子の地へ来て、後に両子村の邑長となったと父母より聞いた。歴代の林家の人達は連坐の適用から解放されたとはいえ、全く他言していないが、意外や意外綾部敦氏がある日両子の庄屋の林家の先祖は、赤穂義士の関係者であると祖父一雄・父省吾より聞いたとのことである。それ故に林家は庄屋のなかでも家柄が非常に良いと生前話していたことを覚えていると語った。内容として、省吾氏は「林」は音で(リン)と言うので、討ち入りの四十七士(一説には四十六士)の中に朝鮮人か中国人を先祖に持つ武林唯七の子孫ではなかろうか、それ故に後に「武」をとり林と名乗ったのではあるまいかと話していたとのことである。
林家の歴史_d0069627_15424178.jpg ここで少し連坐制について書くと、元祿期頃は連坐の適用が比較的緩和されていた様であり、妻や娘等の女子は除外されており、男子の場合は十五歳に達しないものは刑の執行を猶予された。義士の関係者の男子は、宝永六年(1709年)八月二十日・五代将軍綱吉の薨去による大赦が行われ赦免される。
←写真 高野山西生院からの三代三良兵衛への日牌
 次に武林唯七隆重について記すと、祖父は明人・孟二寛と云い、文祿・慶長の朝鮮出兵の時浅野家の捕虜となり日本へ連れてこられ、父祖の地・浙江省抗州武林の出身で孟子の子孫である為、武林を姓として武林治庵と名乗り医を業とした。その子が唯七の父・渡辺平右衛門で浅野家に仕えた。唯七は次男だったので祖父の武林姓を継いだ。
 浅野内匠頭長矩の馬廻として仕え、のち義士の一人として吉良邸に討ち入り、炭小屋に潜んでいた上野介に一番槍を見舞った間十次郎光興の次に一太刀で上野介の息の根をとめた人物である。元祿十六年(1703年)二月四日・長府毛利家江戸屋敷で切腹する。行年三十二歳であった。しかし林家は武林唯七の子孫ではない。
 私は小さい頃より父について盆前の墓掃除に行った。掃除が終わると父・理(おさむ)は先祖は播州赤穂・大石家の縁のものであると言ったが、子供の時であり当時忠臣蔵の話は少しは知っていたがさほどの興味も持たなかった。のち大学受験に失敗し宅浪している時、自分自身を構成している先人達に興味がわき、先祖を調べてみようと思い立ち色々調べてみると十ばかりの口伝を裏付ける事柄が浮かび上がってきた。

# by f-hayashi | 2006-06-11 21:25 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

2 赤穂浪士「縁のもの」

           【壱 両子林家歴代の章】
 「縁のもの」との言い伝えは、先祖から父までの林家口伝であり、親族といえども語っていないのにどうして元・狭間村庄屋の綾部家に伝わっているのか不思議に思い調べてみると、祖を同じくする綾部絅斎が正徳二年(1712年)松平重休侯に従って江戸に行く途中、京都の伊藤東涯・北村篤所を訪問したとの記録があり、また享保九年(1724年)四代・親純侯に従って江戸入り、室鳩巣・服部南郭・中井竹堂・春叟の諸儒を訪問し交誼を厚うすると文献にある。2 赤穂浪士「縁のもの」_d0069627_1483417.jpg当時の日本の有名な儒者と親交があり、その中でも室鳩巣は赤穂浪士を忠義の行動で武士道の典型と賞賛し、後に『赤穂義人録』を刊行した人物である。絅斎は何かを聞き、また知り当時の近しい親族である綾部家に、他に口外しないことを条件に話したのではなかろうか。
 また二代・松平重栄侯は元祿十五年(1702年)九月十五日迄は寺社奉行及び奏者番を勤めており、討ち入りの後の吉良邸の片付けを幕府より命ぜられ任務を全うし、翌・元祿十六年(1703年)七月九日江戸を出発し、八月六日・八年ぶりに国元に帰って来ている。
2 赤穂浪士「縁のもの」_d0069627_2117529.jpg 写真 右→ 綾部絅斎 (1676~1750) の墓(「有終綾部君碑」と篆書で題があり漢文が刻されている。杵築市十王墓地。)
 ←左 赤穂浪士ゆかりの者が両子までたどりついた山路
 林家先祖が両子の地へ来た口伝の内容は、両子山麓の小字・山内(サンナイ)部落に一軒の百姓家(現当主・林港氏)のすぐ西側に、当時国東方面から両子谷へ入る道があり、その道を母と男の子の親子連れの侍が両子谷へ入ったが、慣れない険しい道で母と子であるから大層疲れやっとの思いで村に着き、その百姓家の人に大変親切にされ、後にその時の感謝の気持ちとして本林姓を与え一統に加えたとのことである。
 それから両子村の略中央に位置する林一族の住んでいる徳代の地に屋敷を構え住むこととなる。
 両子林家及び以前より住んでいた林一族の歴史を故・林武生氏はかく語った。御庄屋本(地区の人はオシャモトと言う)の先祖がこの地へ来る以前は秋吉家が庄屋をしていたが何らかの理由で役を取り上げられた。その改易に関わったのが鎌倉期よりこの地にいた数軒の林一族であった。
 一族の系図及び古文書を長老の持ち回りで大切に守ってきたが、林某氏の数代前の人が長老の時自分のものにしてしまい、後に系図は福岡の方に持ち出し現在は不明である。古文書は現在も隠し持っている筈であると述べた。武生氏が亡くなった後に、某氏が古い文書がわが家にあるから見せてやると言われ見た。三十五・六年前のことではあるが、記憶しているのは、年号は建長二年(1250年)で徳代の文字と名前がたしか林後藤兵衛と書かれた古文書と、もう一つは棒術らしき古書であった。これが武生氏から聞いた古文書に相違ないと思った。その後、某氏は県に調べてもらったみたいである。
 昨年の四月頃親族の川嶋家墓地・墓碑等が全く関係の無い人から乗っ取られかけた事件で、久米忠臣氏(私の養祖母ソウの親族)に対策について電話していたら、実は林家も古文書を盗まれているよと語り、以前県の人と一緒に林某氏宅を訪れ古文書を見たが文書は本物であった。しかし、持ち主を県の人は疑っていた。古文書を持つべく家柄かどうかも同時に調べ、後々問題が生じぬ様処理するみたいであり、元々は庄屋の林家の文書が盗まれたと判断したみたいである。もちろん久米家と庄屋の林家との関係は一切秘しての調査をした。現在は安岐町の縁者が所有しているとのことである。

# by f-hayashi | 2006-06-11 21:17 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

3 初代・本林権四郎のことなど

              【壱 両子林家歴代の章】
3 初代・本林権四郎のことなど_d0069627_2111417.jpg 両子の地は両子手永大庄屋が居している地であり、細川氏支配の元和八年(1622年)の人畜改帳に両子久左衛門の名が見え、その後小笠原壱岐守忠知の支配当時及び木付初代松平英親の代まで秋吉氏が住している。承応元年(1652年)久左衛門の名がみえ、貞享弐年丑御分限帳(1685年)には長助の名が見えるが、その後、英親侯の時代に何らかの理由で秋吉家が役を取り上げられ、竹田津手永大庄屋・竹田津重利の子・善兵衛政孝が姓を小串にかえて住している。両子走水観音の棟札には、元祿十三庚辰天(1700年)松平日向守重実公(二代・重栄)・両子手永庄屋善兵衛・両子村小庄屋又右衛門とあり、両子手永大庄屋が秋吉長助から小串善兵衛政孝に取って代られている。
 当時の両子村庄屋・秋吉家と大庄屋秋吉家との関係は恐らく一族であろう。最初に大庄屋が改易となり、後に庄屋の秋吉家も役を取り上げられたと言う次第であった。久左衛門のいた小字・払の家は林一統より誰かがいき家を残させたと考えられる。庄屋の秋吉家は歳神社の東にある三軒の内の一軒が、私の先祖が両子の地に来るまで庄屋をしていた家と古老から聞いたが、歳神社の神職であった家と語る人もいた。
 林(本林)家の先祖は宝永頃に両子の地へ来た。一統の林武生氏がよく語っていたのが、大昔から両子に住んでいた林一族の宗家となってもらったとの一族の口伝が存在していた。
3 初代・本林権四郎のことなど_d0069627_1605992.jpg ←写真 屋敷内の伏見稲荷と笹山権現
 初代・本林権四郎が、享保五年(1720年)三十六歳で亡くなっている。その後、本林兵介藤直が年少の為に、横峯・小園の本林加右衛門が享保五年より数年間庄屋をして、後兵介藤直に庄屋職を渡し、三代・三郎兵衛藤美(左介・佐助)・四代忠右衛門介景・五代八平宗芝・六代来輔弼正(来助・宗弼)・七代壮三郎・八代暢・九代理・十代祐輔と続くのである。
 林(本林)家口伝及び一統の武生氏が語った内容の母と男の子が来た場合、先祖権四郎の存在が宙に浮く、父と子ならば権四郎と兵介と言うことになる。しかし口伝を裏づける事実が墓地にある。兵介藤直の墓の右隣に母の墓があり、墓碑の裏面に名主・本林兵助母と刻まれている。通常の場合、本林権四郎の妻ならば、権四郎の室と彫るのが自然と思われるし、あとの墓碑には何々の室と全て彫り込まれている。
 本林権四郎と本林加右衛門(現在は絶家している)は元播州赤穂浅野家家中と考えられる。当時一つの村へ住む場合は身元引受人も必要であり、庄屋の許可また寺請制度もありそう簡単なことではなかったと思われる。当然母と子のみではなく従者も数名はいたであろうが、何らかの伝てを頼って当地に来たと考えるのが正しい見方ではないだろうか。3 初代・本林権四郎のことなど_d0069627_1430728.jpg
 初代・本林権四郎の戒名「花岳宗清信士」の花岳の文字が浅野家・大石家の菩提寺の花岳寺を暗示していると父はよく話していた。花岳の謂れを知っている人は畏れ多くてとても使えないが、国家老大石家は主家浅野家とは親族の関係であり、「内蔵助の大叔父である頼母助良重の長男・次男がそれぞれ浅野家の分家で旗本の若狹野浅野家(三千石)・家原浅野家(三千五百石)の上級旗本の家を嗣いだ関係」それ故に墓所も同じ花岳寺である。ほかの赤穂遺臣とは主家に対する気持ちが多少違っていたと考えるのが自然であると思う。 写真 本林権四郎の墓 ↑(戒名「花岳宗清信士」)
 戒名についてはもう一つ着目する点がある。義士の一人で百五十石取り馬廻の木村岡右衛門貞行の討ち入り時に左の肩につけていた金紙の法名「英岳宗俊信士」とが酷似している。浪士は皆、成功しても失敗しても最後は死と覚悟しており、岡右衛門は生前、赤穂正福寺住職・盤珪禅師より戒名をつけてもらい討ち入ったのである。

# by f-hayashi | 2006-06-11 21:12 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

4 元祿十五年から享保年間まで

                【壱 両子林家歴代の章】
 話を享保五年(1720年)前後の両子村に戻すと、御領主・松平重休侯(三代)の領内廻村が宝永七年(1710年)と正徳三年(1713年)に行われ、両子村善兵衛宅に一泊するとの記録が残っている。大庄屋小串氏は、恐らく享保十七年(1732年)より数年前に両子村から沓掛村へ移動を命ぜられた筈である。その証拠に、両子善兵衛(小串氏)の養子・与惣兵衛忠政が享保十七年・白鬚田原神社に石燈籠一基を寄進している。尚初代・善兵衛政孝には子がなく、妻の甥であり自分の従兄弟の子の与惣兵衛を養子にむかえ、元文元年(1736年)十月二十日に没している。また善兵衛政孝は小串系図のなかで、「東市正様(初代・英親侯)御代ニ大庄屋ニ仰付ケラレ、両子ニ住ス。」とある。両子手永と言うように両子村が元来大庄屋の住む村であるが、なぜ移動させられたか憶測を生む。
 林(本林)家口伝で、本林兵介藤直が豊前中津拾万石・奥平公より召され、仕官する様にと言われたが、帰農すると言って固辞した。しかし奥平公は兵介藤直に刀を下賜した。奥平公より拝領の刀が(父は粟田口と言っていた)、父の子供の頃まで現存していたが、父の叔父・宗生が持ち出し売却してしまったとの事である。
 奥平家は浅野家鉄砲洲屋敷(上屋敷)のすぐ前に江戸屋敷があり、元祿十四年(1701年)三月十四日・播州赤穂五万三千五百石の城主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭の吉良上野介義央に刃傷事件を起こした年及び翌年の吉良邸討ち入り当時は、丹後の宮津領主であったが、享保二年(1717年)豊前中津へ奥平昌成公が入封している。
4 元祿十五年から享保年間まで_d0069627_2162314.jpg 本林兵介藤直は両子歳神社拝殿の前に、宝暦期一双の燈籠を寄進しており、裏面には播州赤穂・浅野家の定紋と同じ違イ鷹羽が彫られている。余談であるが、内匠頭の室・阿久里のちの瑤泉院の生家である備後三次浅野家の定紋は、右上から左下に傾いた羽根が下側であり、赤穂浅野家の定紋はそれの逆である。両家とも芸州浅野家の分家であるが、定紋を微妙に異ならしている。4 元祿十五年から享保年間まで_d0069627_2165053.jpg
 姓の本林についての私の考えを述べると、読み方は「ホンバヤシ」と読み、変わった読み方である。「モトバヤシ」と読む姓はそれ程多くはないが日本全国には有る。
4 元祿十五年から享保年間まで_d0069627_2172044.jpg 元祿十四年(1701年)八月十九日・吉良家は幕府より屋敷替えを命じられている。それまでは千代田城内の丸ノ内の呉服橋内にあったが、本所松坂町二丁目・松平登之助の空き屋敷に移った。後の赤穂義士研究家・学者は幕閣は上野介をついに見限ったと述べ、赤穂の遺臣が上野介の首を討ちやすくしたと言われているが、事実は三月二十六日・高家の役を辞職した為の屋敷移転であったであろう。
 翌・元祿十五年(1702年)極月十四日・浪士達は別々に泉岳寺に参拝し、夜半本所の三ケ所に集合し、最後の集合場所が本所林町五丁目の堀部安兵衛の寓居である。その後、江戸時代の日付では十四日寅ノ刻ごろ、吉良邸表裏両門から討ち入り、卯ノ刻ごろ上野介の御首級を挙げた。決死の集結地を心に止める為に、姓を本林として「ホンバヤシ」と名乗ったと思う。

# by f-hayashi | 2006-06-11 21:07 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

5 家紋および母屋の間取り

            【壱 両子林家歴代の章】
 次に家紋について述べると、林(本林)家は二ツ巴である。大石家は右二ツ巴であり、巴の大きさが直径の約三分の一である。映画・テレビの忠臣蔵等義士ものは、直径の半分に描かれていることが多いが間違いである。
5 家紋および母屋の間取り_d0069627_14381421.jpg
 六代・林来輔(宗弼)の残した古文書(上の写真…… 左・右の識別を冠した林一統の連署部分 )には左二ツ巴と書いている。この古文書とは何かといえば、林一統の結束を促す文書である。姓と家紋は本家より頂いたものなので、別家の林家は本家に忠誠を尽くせとの内容である。その中で本家は左二ツ巴・別家は右二ツ巴と書いている。思うに来輔は右・左を勘違いしたと思われる。その事を証明しているのは、当時二十数軒あった別家の林一統の子孫が建てた累代墓等には、皆左二ツ巴の家紋が彫られている。父が祖父壮三郎の墓を建てるにあたっては、その文書通りに左二ツ巴紋を彫らせているが、家の土瓦は凡て右二ツ巴紋になっている。
5 家紋および母屋の間取り_d0069627_2113839.jpg
 
 現在の母屋は明治十五・六年頃に壮三郎が建てたが、瓦等は父の来輔が準備していたと思われる。瓦は「東ノ上」という五町歩の山で、松平侯お抱えの瓦焼き職人が焼いたと伝えられている。
 明治に母屋を建て替える前の江戸時代の母屋等建物及び屋敷の図面が家に残されている(下の写真)。近所の老人から、屋敷の入口には大きな長屋門があり上には駕籠が吊されていて小さな潜り戸があったが、とても正面からは入ることが出来なかった。東と西の入口から入ってオシャモトの坪で子供の時、よく遊んだものですと語ったが、話を聞くたびに現在の六百坪の屋敷をながめ、祖父の暢とその弟の宗生を子供心に恨んだものである。戦後、重光葵が衆議院選挙の途中に立ち寄った時、父が挨拶にでるとお父上は健在ですかと聞き、既に亡くなりましたと答えると無言で立ちすくんだそうである。恐らく、葵は子供の時よく遊んだ屋敷の変わり果てた姿を見て、時の流れを感じ林家の栄枯盛衰が脳裏をよぎったと思う。地元に戻ると葵は重光家の本当の親族は林家と松木家のみであるが現在は両家共逼塞していると語り、重光家の親族をかたる人々に釘をさしたとの事である。
5 家紋および母屋の間取り_d0069627_210475.jpg


# by f-hayashi | 2006-06-11 21:02 | 林家の歴史