2006年 06月 08日
【両子林家の歴史…… 三 書き足しの章(8)】 二十数年前に梅園のことで中尾彌三郎氏が我が家に来たことがある。その約一年後の或日、父に両子寺の寺田豪延住職(昨平成17年11月に示寂)より、林家のル-ツを探している人がいるのでお宅を紹介したのでよろしくとの話があった。数日後、六十歳前後の女性が我が家を訪ねて来た。その女性は岡山県に住んでいて林と名乗った。「私の先祖は安岐城主熊谷氏に仕え、黒田如水(孝高)軍と戦ったが城が落ち岡山迄落ち延びた。その後岡山で数か村を束ねる大庄屋となった。先祖は口伝と文書で安岐の出身である。」と話した。父母と私にその古文書を見せてくれた。父も母も我が家の歴史を話し、両子の林一族の主筋の女の血は入っているが、あくまでも男系は両子の人ではないと説明して、徳代にはまだ十軒ばかりの林姓があるので隣近所を訪ねて話を聞いてみたらと話すと、その女性は気落ちした表情になった。私が中尾彌三郎氏から聞いた浦下原の庄屋の林家の話をすると、先祖はその家と関係があるかもしれないと言うので、その場で中尾氏に電話して翌日その女性と一緒に訪問したいがと話すと中尾町長は快く引き受けてくれた。 町長の自宅を訪問して話を聞くが、その家の子孫は現在はこの地にはいないと述べた。その女性はショックを受けたみたいであった。町長の自宅を後にして、安岐城址を案内した。その女性は「私は夫に先立たれ二人の男の子を一所懸命に育て大学迄出した。今は二人に私が築いた数店舗のス-パ-を任せ、時間の余裕が出来たので、先祖の地を訪ね林家のル-ツを探そうと思ったが残念です。しかし、私は貴方のお父様と同じ血が流れていると思い岡山へ帰ります。」と言って別れた。 林一族は他家に仕官した者もいたであろう。岡山の林さんの先祖の様な生き方をして、他の土地に移り住んだ者もいたと思う。本貫地に残り農に帰した人々が、我が家の先祖を心よく迎えた。かっては威張っていた一族も他所から来て、自分らの上に立った秋吉家を苦々しく思いながらも、百年以上もの月日を耐え忍んできたと思う。 写真【安岐城址の碑】場所 大分県国東市安岐町下原(しもばる) 字古城(ふるしろ) 地図……大分空港から車で約3分の場所 碑の正面に「安岐城碑」と大書。左側面に漢文で来歴を記し、裏面に次の撰年と撰者名で結ぶ。 明治三十八年乙巳十月一日 舊杵築藩士荒木公干撰并書
by f-hayashi
| 2006-06-08 16:06
| 林家の歴史
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