両子の林家

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2006年 06月 11日

21 両子寺檀徒と京言葉

   【両子林家の歴史……弐 赤穂浪士ゆかりの章(信)d0069627_16502677.jpg
 天台宗の寺院である両子寺は松平侯の治世下では格式高き寺であり、本山住職は叡山よりの高僧であった。内匠頭の刃傷事件の時は一時の感情による不公平な裁決を申し渡した綱吉も、「君辱めらるれば、臣死す」という武士道の実践に感動し、内蔵助がその不公平な裁決に異議をとなえたことには気づかず、(綱吉は昌平坂学問所で教える程の教養人であるから、君子豹変すという誠の意味が分かっていたと私は思う。)天台座主を兼ねる日光輪王寺門主・公弁法親王に、赤穂浪士の助命を相談している。
 両子寺は天台宗の日光山末寺である。江戸末期か明治の住職の赤松円隣・吉武豪仙等の名は林家口伝に残っている。何時の時代の天台座主か分からないが、その書が現存している。
 写真 右 林家所蔵「天台座主大僧正」の書(戈と子を重ねた字に成か)
 両子寺は糸永住職(武蔵の狭間の出身)の時最悪の事態に陥る。その後都甲出身の寺田氏が住職となる。暢は寺田氏の住職就任に猛反対をする。暢は比叡山の本山に掛け合い反対するが、昔の様に藩主による財政面での援助も無く、時代も変わり延暦寺もその申し入れには応じることが出来なかった。今も暢が書いた延暦寺への書状の控が残っている。それにより両子寺檀徒(江戸期は本山檀家は少ない、林一統でも大半は坊檀家であるが、明治以降は坊が潰れ本山檀家に組み込まれる。)である徳代の林一統は、我が家を除き皆黒住教等に宗旨替えをすることとなる。そのことを知らない理は父・暢の葬式を両子寺二代目住職寺田豪延氏に頼むと、未亡人である豪延和尚の母親は理に皮肉を言ったが、それをたしなめ豪延和尚が快く引き受け、徳代で一軒だけ両子寺の檀家に戻る。あとの林は今日迄神道のままである。
写真  両子寺の無明橋から仁王像d0069627_18445647.jpg
(故・寺田豪延師の写真は同氏編の昭和62年刊『両子寺史』から)
 林(本林)家は父の代迄、母親を呼ぶのに「オカアハン」と言っていた。徳代では人の名前のあとに何々ハンと言う。例えば、父のことを理ハン・武生さんのことを武ハン又は武生ハン・秋吉忠さんのことをターハン・林一さんのことをハジメハンと言う等々である。同志社時代京都で生活して分かっているが、ハンと付けるのは京言葉である。田舎の人が言うと鄙びて聞こえるが、不思議なもので京都の人が言うと何となく雅に聞こえる。どうして陸の孤島と云われた国東半島の真ん中に位置する両子・徳代に京の言葉が現在も使われているのか、恐らく先祖である「母と子」が話していた言葉が残ったのであろう。 写真 林家の祠(おやしろ)にある石の花たて ↓
d0069627_18161527.jpg 六代・林宗弼(来輔)も赤穂義士のことを調べている。重光宗家の四男に生まれ、母の玖美子の実家である両子林家に養子に来て、口伝を叔父・八平宗芝から聞いたことであろう。切腹の二日前の二月二日・松平丹後守様人々御中・大石内蔵助良雄・との古文書が残っている。二十数年前にその古文書を県史編纂室の橋本主幹に解読してもらったところ、この文書は判じものであるから私には意味が分からないとのことであった。橋本氏は昔の武士は教養があり、和歌や古の書籍から引用して、はっきりと述べない傾向のものが多いと語った。本文の間に書かれた小さな字のことを聞くと、昔は追伸をそのように書いたと教えてくれた。
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by f-hayashi | 2006-06-11 16:58 | 林家の歴史


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