両子の林家

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2006年 06月 11日

19 本林兵介とその母

   【両子林家の歴史……弐 赤穂浪士ゆかりの章(礼)
d0069627_1875964.jpg 初代本林権四郎は大石家の縁者か、もしくは赤穂浅野家家中の者であったと考え、本林兵介藤直(戒名・石翁淨閑居士)が可留の子であり、可留が兵介藤直の母(墓の戒名・蓮月妙貞大姉・兵介藤直の位牌には石翁淨閑居士と圓月智貞大姉と並んで書かれている)であると私は思う。d0069627_1882571.jpg恐らく本林権四郎は兵介藤直とその母が両子の地に来る少し前に、当地に移り住んでいたと考えられる。その権四郎をたより、母と子が宝永もしくは正徳の頃に山越しして両子谷へ入ったと考えられる。可留は元祿十六年(1703年)に子を産んでいる。もし大赦が行われた宝永六年(1709年)に当地へ来たと仮定すると、子は数えの七歳である。林(本林)家及び一統の口伝に一致する。
 写真 左上は兵介と母の戒名、右は権四郎の戒名を記した位牌。
 本林兵介藤直は後に豊前中津領主奥平公より召され仕官する様に言われたが、固辞し帰農する道を選ぶのはなぜだろうか。また松平公より側室にくれとの話を命をかけて拒否するのはなぜだろうか、お供の重臣が田舎の一庄屋の肩を持ち、お殿様を諫めたのはなぜだろうか。側室問題は兵介藤直か三郎兵衛藤美(左介)の娘と考えられるが、先祖は松平公に「林(本林)家の娘は、たとえ御殿様であろうと妾奉公はさせません。」と言い切ったとのことである。そのことに御殿様が怒り、その殿様を重臣が諫めたと伝わっている。
d0069627_1755629.jpg 子供の時は、父母にどうして奥平の殿様に仕えなかったのか、田舎の庄屋より侍の方がよかったのにと質問した。また側室の件では、「学校で先生から聞いたが、或偉い先生の孫娘もどこかの殿様の妾になっているよ。」と父母に話すと、父は黙って聞いていたが、母は「そのことは知らなかったが、まあ何とその家は下品なのか、林の先祖の方が立派だよ。」と直ぐに答えてくれた。 写真 中津城
 思うに仕官の固辞及び側室の要求への拒否は、私達の先祖である「母と男の子」の歴史に起因していると思う。主家の為・家の為・名誉の為・忠義の為等々を重んじ、平気で人を斬り、また自ら腹を切る様な武士の世界を嫌い、又それらのことにより、多くの女・子供達が蔭で苦しみ嘆く様なことを二度と味わいたくないとの思いがそうさせたと思う。農に帰すことにより、家の繁栄や栄達よりも安穏な生活の道を選んだと思われる。
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by f-hayashi | 2006-06-11 17:08 | 林家の歴史


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