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両子の林家

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2006年 06月 11日

18 私考――大石主税と可留の子か

   【両子林家の歴史……弐 赤穂浪士ゆかりの章(義)
 史実は大石内蔵助と可留の子となっているが、私は主税と可留との間の子と思う。こんな事さえなければ、主税は内蔵助の後に赤穂浅野家・千五百石取の国家老の家を継ぐ身であった。そのことを不憫に思い、討ち入りが成功しても失敗してもそこには死しか無く、子を持つ男親として、是非も無きことではあるが、十五歳で死ぬであろう嫡男・主税のことを考えるとやりきれない思いに苛まれたと思う。ここで主税の血を絶つことを忍びず、可留に言い含め主税の子を宿させたと思う。虚構に惑わされた人や熱狂的な赤穂義士信奉者は、馬鹿な事を言う者もいるものだと思い、あくまでも主税は十六歳で汚れも知らず死んでいったと考えるであろう。討ち入り直前の十二月十二日付の小野寺十内が妻の丹に送った書状のなかに、主税の一首「あふ時はかたりつくすとおもへども わかれとなればのこる言の葉」が記されていた。主税は元祿十六年二月四日・伊予松山城主松平隠岐守の江戸屋敷で切腹・行年十六・介錯人は波賀清太夫であった。
18 私考――大石主税と可留の子か_d0069627_1814727.jpg← 写真 林家 築山の屋敷荒神と雪見燈籠
 大石内蔵助と妻・りくとの間に長男の松之丞(元服して大石主税良金)・長女くう・次男吉千代・次女るりがいる。りくと主税を除く子供たちを石束家に帰すが、その時りくは身重の身であった。内蔵助は終に見ることが出来なかったが、石束家で産まれ大三郎(代三郎)と名付けられる。長女くう(久宇)は十五歳で早世した。次男吉千代はのちに吉之進と名乗り、連坐を逃れる為に但馬で仏門に入り祖錬元快と名乗る。宝永六年(1709年)に十九歳で亡くなったとも実は生きていたとも言われている。次女・るりは後に広島の浅野家家臣の千石取りの浅野長十郎之信に嫁している。三男の大三郎は丹後の国宮津領熊野郡寸(須)田村に住む眼科医・林文左衛門の養子とするが、大赦後の正徳三年(1713年)大三郎は十二歳の時、浅野家本家である浅野安芸守吉長に千五百石で召し抱えられ、母のりくと共に広島へ移り住む。尚、丹後の宮津にいた時の領主は奥平公であり、後に享保二年(1717年)奥平昌成公が宮津より豊前中津十万石に転封となった。
 仏門に入った次男の吉之進が亡くなったとされる宝永六年(1709年)は、五代将軍綱吉薨去による大赦が行われた年であり、また可留が亡くなったとされる正徳三年(1713年)は大三郎が浅野安芸守吉長に召し抱えられた年でもある。瑞光院の過去帳に久右衛門妾可留と書かれているとのことであるが、京都の瑞光院は江戸の泉岳寺・赤穂の花岳寺及び高野山悉地院と並び赤穂浅野家とは縁の深い寺である。宝永六年と正徳三年は謎に包まれた年であると私は思う。久右衛門とは池田久右衛門という内蔵助の変名であり、母クマの生家である備前岡山池田家の家老池田出羽守由成の姓をとり、池田久右衛門と名乗ったのである。
 林(本林)家先祖が大石家縁の者と騙り、家紋を右二ツ巴にしたりして家の格を上げることに汲々としたのであろうか、どうも私はそうとは思えないのである。18 私考――大石主税と可留の子か_d0069627_17242281.jpg
   写真
両子の歳神社に奉納された石灯籠。「神燈」とある右側面に奉納者の「本林兵介藤直」、左側面に「寶暦丁丑林鐘」と刻される。「林鐘」は6月の別称で、丁丑は宝暦七年(1757)。

by f-hayashi | 2006-06-11 17:35 | 林家の歴史


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