両子の林家

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2006年 06月 11日

17 史実――大石内蔵助と可留の児

写真 字 徳代 地図 からのぞむ両子山
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    【両子林家の歴史…… 弐 赤穂浪士ゆかりの章(仁)
 ここから、あらためて宝永頃両子の地に来た母と男の子及び大石家縁の者との口伝から林家先祖を推理すると、大石内蔵助と可留との間に生まれた男の子が母の可留と共に何かの伝てを頼り両子の地に来て住んだと私は考えてみた。
 可留(お軽・阿軽・おかぢ・おかや・と色々な名前の説があるが、一応可留とする。) 生家は一文字屋とか二文字屋とか出版業を営んでいたとも、古道具屋をしていたともいわれており、京都島原中ノ町の娼家の女だったという説もある。京都紫野の瑞光院の過去帳に「清誉貞林法尼・正徳三年癸巳(1713年)十月六日年二十九往生・二条京都坊二文字屋可留・久右衛門妾也」としるされており、墓は下京の上善寺にあるとのことであるが、はたして本当にそこに可留が眠っているのであろうか。
 赤穂義士研究の第一人者であった三田村鳶魚は「本当の義士の関係者の子孫は人知れずひっそりと暮らしており、義士の関係者とか子孫であると声高らかに言っている人達は実に騙りが多い。」と述べている。かの俗書で有名な「祇園可音(金)物語」の内蔵助の娘を騙る清円尼(滝沢馬琴も「玄同放言」にしるしている。)、堀部弥兵衛の娘を騙った妙海尼(堀部安兵衛武庸の妻を騙る)等々である。討ち入りで赤穂浪士が有名になればなるほど関係者の子孫であると騙り、それに乗っかろうとするのが日本の庶民の考えである。武士(もののふ)の血が流れている人は決してそんなことを言わないと三田村鳶魚は言っているのであると思う。
 義士の討入りを再就職運動であると書いた義士研究家もいるが、明治以降ましてや戦後の視点で江戸期迄の誠の武士の心を推し量るからそこに無理が生じるのである。討ち入り後四十六年目の寛延元年(1748年)八月に竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作による人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が大坂の竹本座で上演され、また歌舞伎や講談により史実と違ったりかけ離れたりして虚構が一人歩きした事柄が多い。
 可留は京都二条寺町の二文字屋次郎左衛門の庶子であったというのが真実であろう。元祿十五年(1702年)四月十五日・大石内蔵助は嫡子主税を残して妻子を離別、但馬豊岡京極家の家老である岳父石束源五兵衛毎公のもとへ返している。山科の屋敷には内蔵助と嫡男主税が残った為に大石家親族の旧赤穂浅野家家臣の進藤源四郎・小山源五右衛門が身の回りの世話をさせる為に、京美人の評判が高かった町家の娘・可留に小間使兼側女としてはいらせた。当時可留は十八歳・内蔵助は四十四歳・主税は十五歳であった。
 可留が内蔵助のもとで暮らしたのは、わずか半年たらずであった。大石内蔵助等はその年(元祿十五年・1702年)閏八月一日・山科から京都四条河原町金蓮寺塔頭梅林庵に仮寓する。同九月に大石主税は間瀬久太夫・大石瀬左衛門らと京を出発して、九月二十四日に江戸に着いている。同十月七日・大石内蔵助は潮田又之丞・近松勘六らと江戸に向かって京都を発つ。三条大橋まで見送った可留はその時既に内蔵助の子を宿していたという。
d0069627_17462726.jpg 十一月二十五日付で大西坊証讃に送った手紙で、旧浅野家御典医の寺井玄渓や内蔵助の養子の大西坊覚運(内蔵助の叔父・小山源五右衛門の子であり、内蔵助の従弟である)に生まれ出る子の将来を頼んでいる。d0069627_17315782.jpg「玄渓へ頼候二条出産之事も、出生申し候わば、金銀遣し、いずかたへなりとも、玄渓遣し申すべく………」と書きはじめ、男の子なら陰間、女の子なら私娼になっても仕方ないが、そのことが心にかかり、これからの志の邪魔になると述べ、後事を託している。二文字屋に帰っても居り場の無い身重の可留のことが非常に気掛かりであったと思われる。 写真 林家の石垣と明治期に建てた母屋
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by f-hayashi | 2006-06-11 17:50 | 林家の歴史


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