2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 林家は暢・宗生の兄弟により食いつぶされ没落の一途をたどる。父・理は、旧制国東中学校にいくが学資が続かず中途退学する。現状を見かねた荒木道は両子に来て、理に学問を本当にしたいなら馬車引きでも何でもして学資を稼げと言った。しかし、道は理をはじめ兄弟の学資を援助する。理は少しでも援助額を和らげる為に官費の学校に入る決心をし、熊本逓信講習所に入り卒業すると一時郵便局で働き学資を貯めて東京へ行き、逓信省高等官吏練習所(官練)に行き勉強する。理は戦争で二度中国に行く、一回目は召集により、二回目は軍属として再度大陸に行く。 理の子供時代の話をセツはよくした。「あなたのお父さんが子供の時は大変な癇癪持ちで我儘だった。食事の時、こんな不味いものが食べられるかと言って私に箸を投げつけた事もあった。よくここまでおとなしくなったものだ。」と話した。父は五歳で実母のイシを亡くし、小児麻痺で足の悪い叔母・イネと継母のセツ(ソウ)とに育てられる。イネは立つことが出来なかったが非常に頭の良い女性であり、林家の口伝等を母に詳しく話して聞かせた。イネがいなかったら口伝は語り継がれなかったと思う。 没落により苦労した為か理は短気な性格と我儘な性格を自分の内に封じ込めたと思う。私の知っている父は穏やかな性格で人と争うこともなく、一度も他人の批判や悪口を口にした事がなかった。父・暢と叔父・宗生とは正反対にタバコも大酒も一切やらず、ギャンブルなどもってのほかであった。私達兄弟が学生の時麻雀をすると聞くと、私たちに麻雀は亡国の遊戯であると戒め、学生の本分を忘れてはならないと意見した。 理は自慢話は殆どしなかったが、軍属で大陸へ渡った時は大尉待遇で物資が乏しい時代にも拘らずビ-ルまで飲み放題であったとよく私に話してくれた。軍属時代は給料が内地の二倍にもなり、半分は父の暢に送金した。暢は親らしいことはしなかったが、理宛の手紙の最後にはかならず「人後に落ちざるよう」と書いていたそうである。 内地に帰ってからは逓信省東京中央電信局外信課に勤務する。父・理の話ではすでに米国が日本に原子爆弾投下を検討しているとの情報が、中立国の南米アルゼンチン(もしくはチリ)からもたらされていた。既に戦争に負けると分かっていたと話した。大東亜戦争に敗れ終戦をむかえると、暢は反対したが郷里の両子に帰り農業をする。
by f-hayashi
| 2006-06-11 19:31
| 林家の歴史
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