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両子の林家

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2006年 06月 11日

10 ふたたび林家と重光家

               【壱 両子林家歴代の章】
 話が前後するが、重光義穂の妻は元松平家御典医の松成家長女コクである。コクの妹は林壮三郎の長男・暢の妻イシである。義穂は妻妾同居であり、コクの死に水をとったのが妾という哀れさであった。
 煥古の三男・哲也は旧制杵築中学の三期生で父方の従兄弟・葵と同期であり、従兄弟同士五高から東京帝国大学に進み、卒業後哲也は農林省・葵は外務省にはいる。哲也が東大在学中にユダヤ教について書いた小論文がのっている小冊子を、学資でお世話になった伯父・壮三郎宛に送ってきているが見事な文章である。しかし、哲也は若くして亡くなる。
10 ふたたび林家と重光家_d0069627_16284532.jpg写真 松子と重光直愿(いとこ婚であった)
 次に杵築重光家への援助である。林壮三郎の従兄である重光直愿は大野郡郡長等を歴任し、明治二十七年国東郡郡長を辞任し下野した為に、林家から相当額を援助したとのことである。直愿の妻は重光宗家景行(立平)の三女・松子であり、松子もまた壮三郎の従妹という関係にある。林家と重光家は二重三重に縁組みをしており、壮三郎の最初の妻は杵築重光家の出であり、その当時の妻は隈井春兆の娘である。又その姉妹が松子の兄・重光直幹の妻と重光彦三郎の妻となっていた。その三姉妹は壮三郎の母・貞子の姪に当たり、壮三郎の母方の従姉妹でもあった。壮三郎の長男・暢は毛登子・タ子姉妹の甥にあたる。
 重光直愿・松子夫婦の長男・蔟(アツム)は杵築中学の第一期生で五高から東京帝国大学へと進み、東京帝国大学工学部教授等を歴任して最後は日本海事協会名誉会長となる。二男・葵(号・向陽)は明治三十一年伯父の重光彦三郎の養子となり、杵築中学・五高・東京帝国大学へと進み外交官となる。三男・蔵(オサム)も兄・葵のコースを踏襲して、戦前は東亜同文書院の教授となる。戦後は大分県に戻り大分大学経済学部の教授を勤め、杵築重光家をまもるのである。女性も高等女学校を出し、皆教育している。
写真↓林家が藤子を嫁に迎える際に重光家の各氏に贈った物品目録
10 ふたたび林家と重光家_d0069627_17362364.jpg 杵築重光家二女・藤子は林壮三郎の長男・暢(トオル)に嫁すが、一年足らずで林家を後にする。林暢が大分県椎茸組合の理事をしていて、仕事で大分県庁に行き留守の時、夫の顔を見たら涙がでますと言い、家人の引き止めるのも聞かず林家を出る。後に京都の医師岡部某と再婚し、大正七年十月一日三十歳で亡くなる。 写真 林 暢が受けたシイタケ輸出の許可証 ↓10 ふたたび林家と重光家_d0069627_1737372.jpg
 林家では藤子が家を出た理由が判らなかった。当時の林家は下男・下女も多く大所帯であったので、そのことが煩わしく暢へ一緒に町へ出ようと盛んに言っていたとのことである。それが無理ならば村の教師になっても良いかと言ったが、林家からは職業婦人は出さないと反対された。藤子は一番仲の良い兄・葵に相談したところ、そんなつまらない男なら別れろと言われ別れたと伝えられており、暢の妹のイネ(当時のカナ字体で「イ子」と表記し「いね」と読む)は、ミズーリ号上の降伏文書の調印及びA級戦犯を喜んだそうである。

by f-hayashi | 2006-06-11 20:49 | 林家の歴史


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