両子の林家

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2006年 06月 11日

8 来輔の長男・林 壮三郎――幕末から明治へ

              【壱 両子林家歴代の章】
 林来輔は非常に頭が良かったと聞いているが、従兄の御郡奉行・磯矢匡の存在及び御家老の加藤家との関係もあったと思われる。その来輔も明治元年(慶應四年・1868年)三月五日・四十五歳の若さで没したのである。d0069627_16564574.jpg
 長男・林壮三郎は数えの十六歳で杵築藩両子村庄屋を申しつけられるが、年少の為に隣村の富永村庄屋・三浦喜十二(壮吉)が後見人となる。喜十二は時々我が家に来ていたそうである。或るとき喜十二が風呂に入り、母親の貞子が背中を流してやったのに立腹して刀を持ち出し、仏間の前で腹を切ると言い出し、母等の説得でやっとおさまったとの話が伝えられている。かっては下にみていた三浦家が後見人風を吹かせた事に対しての強い憤りを感じたことであろう。
 写真 安岐町富清の宮畑神社 参道北約50メートル地点に建つ三浦喜十二翁の功績碑(肖像は昭和31年刊・淵上金吾 著『西武蔵村史』口絵から)
 母の貞子は杵築藩溝井村庄屋・宇都宮家の出で、兄は宇都宮雄八郎と言う。夫の来輔が早く亡くなった為、十六歳の長男・壮三郎をはじめ四男、壮三郎の姉・源子をはじめ三女が残され、経済的苦労は無いものの精神的な苦労が大きかったと思える。
 明治五年(1872年)庄屋制度が廃止になる時、本藩領の庄屋が全員杵築の御城へ呼び出されて、ことの説明を受けた。それが終わった後、壮三郎は御家老の加藤氏より特別に家に招かれたが、その席で今後は御家老よりも私の方が上ですねとぬけぬけと言ったとの話が伝えられている。その話を聞き何と失礼なことを言ったのかと思ったが、調べてみると年齢がその時数えの二十歳であり思慮にかけたのであろう。加藤家とは代々近しい間柄であったと伝わっており、現在も加藤家の姫様の羽二重の三枚重の着物や礼儀作法の書の写し等が残っている。
d0069627_1721954.jpg 林壮三郎は戸長や学務委員等は歴任したが政治はあまり好まなかった。経済感覚に勝れ両子山の原野に牛を放牧したり農事に精を出したが、それらはあまり成功しなかった。
 当時郡長をしていた従兄の重光直愿の推挙により教師から玖珠の八幡村村長となっていた実弟の恒策(私の母・三千代の祖父)のすすめにより、佐伯よりナバ(椎茸)杣頭を雇い入れ椎茸栽培に本格的に取り組み成功をおさめる。
 当時の椎茸は森式種駒もなく、くぬぎ・楢の木に鉈目をつけ胞子を自然着生させる方法しかなかったので、成功した人は少なく多くが失敗したそうである。林家は当時山林を多く所有しており、一番広い山で実面積が五十町歩もある山があり椎茸の原木には事欠かなかった。関西方面に移出し大いに儲けた。 写真 ↓ 壮三郎へ赤十字社総裁より贈られた直筆の書
d0069627_15382170.jpg 壮三郎は猟と競馬が大好きで、家一軒分以上もの金をだして二頭の外国馬(サラブレッドと聞いた)を購入している。馬の名は「月虎」と「汗月」と名付けた。その二頭の馬は板張りの馬屋で飼い、毎朝湯を沸かし壮三郎自ら馬の体を拭いたそうであり、下男をはじめ周りの者には絶対に触らせなかったそうである。
 明治・大正の頃は地方の素封家が馬を持ち、草競馬が盛んであった。林家も各地の草競馬に参加し、文ヤン(吉水姓)が専属騎手をつとめ、その手綱さばきは見事であったと語り継がれてきた。宇佐か中津で優勝した記念品の柱時計が家に残っている。優勝の祝賀会の模様を私の子供の頃、林武生氏と秋吉忠氏から聞いた内容は、祝賀会が始まる前にオシャモト(御庄屋本)の門(江戸期の長屋門は大正初期迄あった)の前で大勢の祝い客が集まると、下の方から土煙をあげて一頭の馬が駆けて来て門の前で止まった。その時の馬上の文ヤンの得意気な顔を今でも覚えているとよく話してくれた。d0069627_15453148.jpg
 ちなみに仲の悪かった、富永村の三浦喜十ニと壮三郎は、後に親戚となる。喜十二の一人息子の壮に嫁したのが、壮三郎の長女・百惠であった。 写真 晩年の 三浦百惠
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by f-hayashi | 2006-06-11 20:52 | 林家の歴史


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