両子の林家

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2006年 06月 11日

7 両子の林一統のこと

             【壱 両子林家歴代の章】
 国東市安岐町両子(ふたご) 字 徳代 地図
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 徳代は東口・西口に分かれ、内無常として庄屋本と西の林家(代内の人は下の屋敷と呼び、現当主は林吉和氏)と上の林家(現当主は林清美氏)の三軒であったが、一軒追加して四軒とした。追加した林家は元々の林ではない。徳代は現在林姓がほとんどだが別姓が三軒ある。田辺・清原・代である。内無常の追加の家は某家の隠居した家と言われているが、古老に聞いた話によると、某家は林一族が文祿・慶長の役の時捕虜として連れて来たものの子孫であり、染物をしていた関係で紺屋と呼ばれていたとのことである。
 林武生氏等古老によれば、オシャモトの先祖が大変世話になり名字を与えた山内の林家及び後に林の名字を名乗ることを許された家々と、我々林一族とは違うとよく話していた。一族の口伝が正しいが、姓の違う或老婆が「私の家は貧乏で自分の家で食べる米も無かった様な状態だったので、林一統に加えてもらえなかったと古い人から聞いているが、庄屋一統も米一斗と言う様に昔は皆同じだった。自分の家にも本林と書いた位牌がある」とよく私の母に語っていたとのことである。最近、その家の当主に位牌を見せてもらうと確かに本林と書いており、墓地に案内してもらうと、その家の墓地より少し離れた林止家と分家である林武生家の墓地の間に、その家が管理し掃除をしてきた墓が二基あり一つの墓の裏面に本林姓が彫られている。年代はさほど古くはない、恐らく家が絶え、その家が屋敷と墓及び位牌を受け継ぎ守ってきたと推察される。
 ここで林一統のことを詳しく述べると、我が家が昔から西と上と呼んできた両・林家は昔から親戚関係にあり、他村の山ノ口等村役人層と縁組みをしており、徳代の他の林家とは縁組みを全くしていない。他の林家は過去十二軒程あったが、その内の一軒は代々我が家の譜代(フデ)であり、残りの林家は四組程の本家があり、あと残りはその家からの分家である。後・林姓をもらった家は除いて、譜代の家を含め皆昔は縁組みをしており親戚関係にある。徳代以外に下分に数軒・横峯に数軒林姓がある。
 我が先祖が両子の地へ来た時いた林一族の主筋の家が西の林家であろう。林武生氏がよく語っていた林一族の宗家になってもらったとの口伝は、本林兵介藤直が西の林家の女を娶り、一族の長となったと思われる。屋敷は隣同士であり、山等土地も境を接している所が多い。その後は縁組みはしていない。d0069627_16164720.jpg
 西の林家は井戸と台所が徳代では一軒だけ東側にある。その理由を西の古い人が語ったのが、江戸の昔お殿様が大勢の家臣を引き連れて御庄屋本に来た時、料理が御庄屋本の台所だけでは賄いきれないので東側にあると聞いていると述べた。我が家の口伝でも、御殿様は一寸西の林家に行き、お茶を飲んだこともあったそうである。
 写真 林家墓地の「寶雲齋林宗弼之墓」→
 その西の林家が来輔(宗弼)が庄屋の時代絶え、来輔はこの家は名家であるからと惜しみ、従来からの親族の上の林家の女と横峯小園の本林加右衛門の子孫の男を娶せ、西の林家を残したのである。その後加右衛門家も絶えたが、その分家が二軒とまたその分かれが一軒ある。加右衛門の墓等は親族の西の林家が現在管理している。
林宗家の建て直しに努力した六代・林来輔(宗弼)は惣代年番を重任し、藩内百数人の庄屋が皆旦那様と呼んでいたとのことである。d0069627_16143360.jpg また村では結束を計る為か、林一氏がよく語っていたのが昔は旧暦正月何日かに林一統は御庄屋本へ皆刀を差して集まったものであり、なかには刀が無くなった者は腰に木刀を差して行った。かっての林一統といったら近隣に名が通っていたと誇らしげに話してくれた。
 ← 写真 林来輔が受けた華道の免許状
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by f-hayashi | 2006-06-11 20:54 | 林家の歴史


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