両子の林家

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2006年 06月 11日

5 家紋および母屋の間取り

            【壱 両子林家歴代の章】
 次に家紋について述べると、林(本林)家は二ツ巴である。大石家は右二ツ巴であり、巴の大きさが直径の約三分の一である。映画・テレビの忠臣蔵等義士ものは、直径の半分に描かれていることが多いが間違いである。
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 六代・林来輔(宗弼)の残した古文書(上の写真…… 左・右の識別を冠した林一統の連署部分 )には左二ツ巴と書いている。この古文書とは何かといえば、林一統の結束を促す文書である。姓と家紋は本家より頂いたものなので、別家の林家は本家に忠誠を尽くせとの内容である。その中で本家は左二ツ巴・別家は右二ツ巴と書いている。思うに来輔は右・左を勘違いしたと思われる。その事を証明しているのは、当時二十数軒あった別家の林一統の子孫が建てた累代墓等には、皆左二ツ巴の家紋が彫られている。父が祖父壮三郎の墓を建てるにあたっては、その文書通りに左二ツ巴紋を彫らせているが、家の土瓦は凡て右二ツ巴紋になっている。
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 現在の母屋は明治十五・六年頃に壮三郎が建てたが、瓦等は父の来輔が準備していたと思われる。瓦は「東ノ上」という五町歩の山で、松平侯お抱えの瓦焼き職人が焼いたと伝えられている。
 明治に母屋を建て替える前の江戸時代の母屋等建物及び屋敷の図面が家に残されている(下の写真)。近所の老人から、屋敷の入口には大きな長屋門があり上には駕籠が吊されていて小さな潜り戸があったが、とても正面からは入ることが出来なかった。東と西の入口から入ってオシャモトの坪で子供の時、よく遊んだものですと語ったが、話を聞くたびに現在の六百坪の屋敷をながめ、祖父の暢とその弟の宗生を子供心に恨んだものである。戦後、重光葵が衆議院選挙の途中に立ち寄った時、父が挨拶にでるとお父上は健在ですかと聞き、既に亡くなりましたと答えると無言で立ちすくんだそうである。恐らく、葵は子供の時よく遊んだ屋敷の変わり果てた姿を見て、時の流れを感じ林家の栄枯盛衰が脳裏をよぎったと思う。地元に戻ると葵は重光家の本当の親族は林家と松木家のみであるが現在は両家共逼塞していると語り、重光家の親族をかたる人々に釘をさしたとの事である。
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by f-hayashi | 2006-06-11 21:02 | 林家の歴史


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