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両子の林家

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2006年 06月 11日

4 元祿十五年から享保年間まで

                【壱 両子林家歴代の章】
 話を享保五年(1720年)前後の両子村に戻すと、御領主・松平重休侯(三代)の領内廻村が宝永七年(1710年)と正徳三年(1713年)に行われ、両子村善兵衛宅に一泊するとの記録が残っている。大庄屋小串氏は、恐らく享保十七年(1732年)より数年前に両子村から沓掛村へ移動を命ぜられた筈である。その証拠に、両子善兵衛(小串氏)の養子・与惣兵衛忠政が享保十七年・白鬚田原神社に石燈籠一基を寄進している。尚初代・善兵衛政孝には子がなく、妻の甥であり自分の従兄弟の子の与惣兵衛を養子にむかえ、元文元年(1736年)十月二十日に没している。また善兵衛政孝は小串系図のなかで、「東市正様(初代・英親侯)御代ニ大庄屋ニ仰付ケラレ、両子ニ住ス。」とある。両子手永と言うように両子村が元来大庄屋の住む村であるが、なぜ移動させられたか憶測を生む。
 林(本林)家口伝で、本林兵介藤直が豊前中津拾万石・奥平公より召され、仕官する様にと言われたが、帰農すると言って固辞した。しかし奥平公は兵介藤直に刀を下賜した。奥平公より拝領の刀が(父は粟田口と言っていた)、父の子供の頃まで現存していたが、父の叔父・宗生が持ち出し売却してしまったとの事である。
 奥平家は浅野家鉄砲洲屋敷(上屋敷)のすぐ前に江戸屋敷があり、元祿十四年(1701年)三月十四日・播州赤穂五万三千五百石の城主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭の吉良上野介義央に刃傷事件を起こした年及び翌年の吉良邸討ち入り当時は、丹後の宮津領主であったが、享保二年(1717年)豊前中津へ奥平昌成公が入封している。
4 元祿十五年から享保年間まで_d0069627_2162314.jpg 本林兵介藤直は両子歳神社拝殿の前に、宝暦期一双の燈籠を寄進しており、裏面には播州赤穂・浅野家の定紋と同じ違イ鷹羽が彫られている。余談であるが、内匠頭の室・阿久里のちの瑤泉院の生家である備後三次浅野家の定紋は、右上から左下に傾いた羽根が下側であり、赤穂浅野家の定紋はそれの逆である。両家とも芸州浅野家の分家であるが、定紋を微妙に異ならしている。4 元祿十五年から享保年間まで_d0069627_2165053.jpg
 姓の本林についての私の考えを述べると、読み方は「ホンバヤシ」と読み、変わった読み方である。「モトバヤシ」と読む姓はそれ程多くはないが日本全国には有る。
4 元祿十五年から享保年間まで_d0069627_2172044.jpg 元祿十四年(1701年)八月十九日・吉良家は幕府より屋敷替えを命じられている。それまでは千代田城内の丸ノ内の呉服橋内にあったが、本所松坂町二丁目・松平登之助の空き屋敷に移った。後の赤穂義士研究家・学者は幕閣は上野介をついに見限ったと述べ、赤穂の遺臣が上野介の首を討ちやすくしたと言われているが、事実は三月二十六日・高家の役を辞職した為の屋敷移転であったであろう。
 翌・元祿十五年(1702年)極月十四日・浪士達は別々に泉岳寺に参拝し、夜半本所の三ケ所に集合し、最後の集合場所が本所林町五丁目の堀部安兵衛の寓居である。その後、江戸時代の日付では十四日寅ノ刻ごろ、吉良邸表裏両門から討ち入り、卯ノ刻ごろ上野介の御首級を挙げた。決死の集結地を心に止める為に、姓を本林として「ホンバヤシ」と名乗ったと思う。

by f-hayashi | 2006-06-11 21:07 | 林家の歴史


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