両子の林家

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2006年 06月 11日

3 初代・本林権四郎のことなど

              【壱 両子林家歴代の章】
d0069627_2111417.jpg 両子の地は両子手永大庄屋が居している地であり、細川氏支配の元和八年(1622年)の人畜改帳に両子久左衛門の名が見え、その後小笠原壱岐守忠知の支配当時及び木付初代松平英親の代まで秋吉氏が住している。承応元年(1652年)久左衛門の名がみえ、貞享弐年丑御分限帳(1685年)には長助の名が見えるが、その後、英親侯の時代に何らかの理由で秋吉家が役を取り上げられ、竹田津手永大庄屋・竹田津重利の子・善兵衛政孝が姓を小串にかえて住している。両子走水観音の棟札には、元祿十三庚辰天(1700年)松平日向守重実公(二代・重栄)・両子手永庄屋善兵衛・両子村小庄屋又右衛門とあり、両子手永大庄屋が秋吉長助から小串善兵衛政孝に取って代られている。
 当時の両子村庄屋・秋吉家と大庄屋秋吉家との関係は恐らく一族であろう。最初に大庄屋が改易となり、後に庄屋の秋吉家も役を取り上げられたと言う次第であった。久左衛門のいた小字・払の家は林一統より誰かがいき家を残させたと考えられる。庄屋の秋吉家は歳神社の東にある三軒の内の一軒が、私の先祖が両子の地に来るまで庄屋をしていた家と古老から聞いたが、歳神社の神職であった家と語る人もいた。
 林(本林)家の先祖は宝永頃に両子の地へ来た。一統の林武生氏がよく語っていたのが、大昔から両子に住んでいた林一族の宗家となってもらったとの一族の口伝が存在していた。
d0069627_1605992.jpg ←写真 屋敷内の伏見稲荷と笹山権現
 初代・本林権四郎が、享保五年(1720年)三十六歳で亡くなっている。その後、本林兵介藤直が年少の為に、横峯・小園の本林加右衛門が享保五年より数年間庄屋をして、後兵介藤直に庄屋職を渡し、三代・三郎兵衛藤美(左介・佐助)・四代忠右衛門介景・五代八平宗芝・六代来輔弼正(来助・宗弼)・七代壮三郎・八代暢・九代理・十代祐輔と続くのである。
 林(本林)家口伝及び一統の武生氏が語った内容の母と男の子が来た場合、先祖権四郎の存在が宙に浮く、父と子ならば権四郎と兵介と言うことになる。しかし口伝を裏づける事実が墓地にある。兵介藤直の墓の右隣に母の墓があり、墓碑の裏面に名主・本林兵助母と刻まれている。通常の場合、本林権四郎の妻ならば、権四郎の室と彫るのが自然と思われるし、あとの墓碑には何々の室と全て彫り込まれている。
 本林権四郎と本林加右衛門(現在は絶家している)は元播州赤穂浅野家家中と考えられる。当時一つの村へ住む場合は身元引受人も必要であり、庄屋の許可また寺請制度もありそう簡単なことではなかったと思われる。当然母と子のみではなく従者も数名はいたであろうが、何らかの伝てを頼って当地に来たと考えるのが正しい見方ではないだろうか。d0069627_1430728.jpg
 初代・本林権四郎の戒名「花岳宗清信士」の花岳の文字が浅野家・大石家の菩提寺の花岳寺を暗示していると父はよく話していた。花岳の謂れを知っている人は畏れ多くてとても使えないが、国家老大石家は主家浅野家とは親族の関係であり、「内蔵助の大叔父である頼母助良重の長男・次男がそれぞれ浅野家の分家で旗本の若狹野浅野家(三千石)・家原浅野家(三千五百石)の上級旗本の家を嗣いだ関係」それ故に墓所も同じ花岳寺である。ほかの赤穂遺臣とは主家に対する気持ちが多少違っていたと考えるのが自然であると思う。 写真 本林権四郎の墓 ↑(戒名「花岳宗清信士」)
 戒名についてはもう一つ着目する点がある。義士の一人で百五十石取り馬廻の木村岡右衛門貞行の討ち入り時に左の肩につけていた金紙の法名「英岳宗俊信士」とが酷似している。浪士は皆、成功しても失敗しても最後は死と覚悟しており、岡右衛門は生前、赤穂正福寺住職・盤珪禅師より戒名をつけてもらい討ち入ったのである。
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by f-hayashi | 2006-06-11 21:12 | 林家の歴史


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