両子の林家

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2006年 06月 11日

2 赤穂浪士「縁のもの」

           【壱 両子林家歴代の章】
 「縁のもの」との言い伝えは、先祖から父までの林家口伝であり、親族といえども語っていないのにどうして元・狭間村庄屋の綾部家に伝わっているのか不思議に思い調べてみると、祖を同じくする綾部絅斎が正徳二年(1712年)松平重休侯に従って江戸に行く途中、京都の伊藤東涯・北村篤所を訪問したとの記録があり、また享保九年(1724年)四代・親純侯に従って江戸入り、室鳩巣・服部南郭・中井竹堂・春叟の諸儒を訪問し交誼を厚うすると文献にある。d0069627_1483417.jpg当時の日本の有名な儒者と親交があり、その中でも室鳩巣は赤穂浪士を忠義の行動で武士道の典型と賞賛し、後に『赤穂義人録』を刊行した人物である。絅斎は何かを聞き、また知り当時の近しい親族である綾部家に、他に口外しないことを条件に話したのではなかろうか。
 また二代・松平重栄侯は元祿十五年(1702年)九月十五日迄は寺社奉行及び奏者番を勤めており、討ち入りの後の吉良邸の片付けを幕府より命ぜられ任務を全うし、翌・元祿十六年(1703年)七月九日江戸を出発し、八月六日・八年ぶりに国元に帰って来ている。
d0069627_2117529.jpg 写真 右→ 綾部絅斎 (1676~1750) の墓(「有終綾部君碑」と篆書で題があり漢文が刻されている。杵築市十王墓地。)
 ←左 赤穂浪士ゆかりの者が両子までたどりついた山路
 林家先祖が両子の地へ来た口伝の内容は、両子山麓の小字・山内(サンナイ)部落に一軒の百姓家(現当主・林港氏)のすぐ西側に、当時国東方面から両子谷へ入る道があり、その道を母と男の子の親子連れの侍が両子谷へ入ったが、慣れない険しい道で母と子であるから大層疲れやっとの思いで村に着き、その百姓家の人に大変親切にされ、後にその時の感謝の気持ちとして本林姓を与え一統に加えたとのことである。
 それから両子村の略中央に位置する林一族の住んでいる徳代の地に屋敷を構え住むこととなる。
 両子林家及び以前より住んでいた林一族の歴史を故・林武生氏はかく語った。御庄屋本(地区の人はオシャモトと言う)の先祖がこの地へ来る以前は秋吉家が庄屋をしていたが何らかの理由で役を取り上げられた。その改易に関わったのが鎌倉期よりこの地にいた数軒の林一族であった。
 一族の系図及び古文書を長老の持ち回りで大切に守ってきたが、林某氏の数代前の人が長老の時自分のものにしてしまい、後に系図は福岡の方に持ち出し現在は不明である。古文書は現在も隠し持っている筈であると述べた。武生氏が亡くなった後に、某氏が古い文書がわが家にあるから見せてやると言われ見た。三十五・六年前のことではあるが、記憶しているのは、年号は建長二年(1250年)で徳代の文字と名前がたしか林後藤兵衛と書かれた古文書と、もう一つは棒術らしき古書であった。これが武生氏から聞いた古文書に相違ないと思った。その後、某氏は県に調べてもらったみたいである。
 昨年の四月頃親族の川嶋家墓地・墓碑等が全く関係の無い人から乗っ取られかけた事件で、久米忠臣氏(私の養祖母ソウの親族)に対策について電話していたら、実は林家も古文書を盗まれているよと語り、以前県の人と一緒に林某氏宅を訪れ古文書を見たが文書は本物であった。しかし、持ち主を県の人は疑っていた。古文書を持つべく家柄かどうかも同時に調べ、後々問題が生じぬ様処理するみたいであり、元々は庄屋の林家の文書が盗まれたと判断したみたいである。もちろん久米家と庄屋の林家との関係は一切秘しての調査をした。現在は安岐町の縁者が所有しているとのことである。
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by f-hayashi | 2006-06-11 21:17 | 林家の歴史


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