2006年 06月 11日

林家の歴史

 これから始まる文章(連載計30回)は、平成18年 3月14日に執筆した「両子林家の歴史及び先祖に関する一考察」を、その後に撮影した写真とともに、このブログ「両子の林家」に掲載しなおしたものである。 滝口 俊介(旧姓・林)

    壱 両子林家歴代の章

1 両子林家の歴史及び先祖について

  写真 二段に組んだ林家の石垣d0069627_1530884.jpg
 林家(初代より三代位迄本林姓を使う)の口伝で先祖は赤穂浪士の頭領・大石内蔵助良雄(ヨシタカ・元播州赤穂浅野家の国家老)縁の者が両子の地へ来て、後に両子村の邑長となったと父母より聞いた。歴代の林家の人達は連坐の適用から解放されたとはいえ、全く他言していないが、意外や意外綾部敦氏がある日両子の庄屋の林家の先祖は、赤穂義士の関係者であると祖父一雄・父省吾より聞いたとのことである。それ故に林家は庄屋のなかでも家柄が非常に良いと生前話していたことを覚えていると語った。内容として、省吾氏は「林」は音で(リン)と言うので、討ち入りの四十七士(一説には四十六士)の中に朝鮮人か中国人を先祖に持つ武林唯七の子孫ではなかろうか、それ故に後に「武」をとり林と名乗ったのではあるまいかと話していたとのことである。
d0069627_15424178.jpg ここで少し連坐制について書くと、元祿期頃は連坐の適用が比較的緩和されていた様であり、妻や娘等の女子は除外されており、男子の場合は十五歳に達しないものは刑の執行を猶予された。義士の関係者の男子は、宝永六年(1709年)八月二十日・五代将軍綱吉の薨去による大赦が行われ赦免される。
←写真 高野山西生院からの三代三良兵衛への日牌
 次に武林唯七隆重について記すと、祖父は明人・孟二寛と云い、文祿・慶長の朝鮮出兵の時浅野家の捕虜となり日本へ連れてこられ、父祖の地・浙江省抗州武林の出身で孟子の子孫である為、武林を姓として武林治庵と名乗り医を業とした。その子が唯七の父・渡辺平右衛門で浅野家に仕えた。唯七は次男だったので祖父の武林姓を継いだ。
 浅野内匠頭長矩の馬廻として仕え、のち義士の一人として吉良邸に討ち入り、炭小屋に潜んでいた上野介に一番槍を見舞った間十次郎光興の次に一太刀で上野介の息の根をとめた人物である。元祿十六年(1703年)二月四日・長府毛利家江戸屋敷で切腹する。行年三十二歳であった。しかし林家は武林唯七の子孫ではない。
 私は小さい頃より父について盆前の墓掃除に行った。掃除が終わると父・理(おさむ)は先祖は播州赤穂・大石家の縁のものであると言ったが、子供の時であり当時忠臣蔵の話は少しは知っていたがさほどの興味も持たなかった。のち大学受験に失敗し宅浪している時、自分自身を構成している先人達に興味がわき、先祖を調べてみようと思い立ち色々調べてみると十ばかりの口伝を裏付ける事柄が浮かび上がってきた。
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# by f-hayashi | 2006-06-11 21:25 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

2 赤穂浪士「縁のもの」

           【壱 両子林家歴代の章】
 「縁のもの」との言い伝えは、先祖から父までの林家口伝であり、親族といえども語っていないのにどうして元・狭間村庄屋の綾部家に伝わっているのか不思議に思い調べてみると、祖を同じくする綾部絅斎が正徳二年(1712年)松平重休侯に従って江戸に行く途中、京都の伊藤東涯・北村篤所を訪問したとの記録があり、また享保九年(1724年)四代・親純侯に従って江戸入り、室鳩巣・服部南郭・中井竹堂・春叟の諸儒を訪問し交誼を厚うすると文献にある。d0069627_1483417.jpg当時の日本の有名な儒者と親交があり、その中でも室鳩巣は赤穂浪士を忠義の行動で武士道の典型と賞賛し、後に『赤穂義人録』を刊行した人物である。絅斎は何かを聞き、また知り当時の近しい親族である綾部家に、他に口外しないことを条件に話したのではなかろうか。
 また二代・松平重栄侯は元祿十五年(1702年)九月十五日迄は寺社奉行及び奏者番を勤めており、討ち入りの後の吉良邸の片付けを幕府より命ぜられ任務を全うし、翌・元祿十六年(1703年)七月九日江戸を出発し、八月六日・八年ぶりに国元に帰って来ている。
d0069627_2117529.jpg 写真 右→ 綾部絅斎 (1676~1750) の墓(「有終綾部君碑」と篆書で題があり漢文が刻されている。杵築市十王墓地。)
 ←左 赤穂浪士ゆかりの者が両子までたどりついた山路
 林家先祖が両子の地へ来た口伝の内容は、両子山麓の小字・山内(サンナイ)部落に一軒の百姓家(現当主・林港氏)のすぐ西側に、当時国東方面から両子谷へ入る道があり、その道を母と男の子の親子連れの侍が両子谷へ入ったが、慣れない険しい道で母と子であるから大層疲れやっとの思いで村に着き、その百姓家の人に大変親切にされ、後にその時の感謝の気持ちとして本林姓を与え一統に加えたとのことである。
 それから両子村の略中央に位置する林一族の住んでいる徳代の地に屋敷を構え住むこととなる。
 両子林家及び以前より住んでいた林一族の歴史を故・林武生氏はかく語った。御庄屋本(地区の人はオシャモトと言う)の先祖がこの地へ来る以前は秋吉家が庄屋をしていたが何らかの理由で役を取り上げられた。その改易に関わったのが鎌倉期よりこの地にいた数軒の林一族であった。
 一族の系図及び古文書を長老の持ち回りで大切に守ってきたが、林某氏の数代前の人が長老の時自分のものにしてしまい、後に系図は福岡の方に持ち出し現在は不明である。古文書は現在も隠し持っている筈であると述べた。武生氏が亡くなった後に、某氏が古い文書がわが家にあるから見せてやると言われ見た。三十五・六年前のことではあるが、記憶しているのは、年号は建長二年(1250年)で徳代の文字と名前がたしか林後藤兵衛と書かれた古文書と、もう一つは棒術らしき古書であった。これが武生氏から聞いた古文書に相違ないと思った。その後、某氏は県に調べてもらったみたいである。
 昨年の四月頃親族の川嶋家墓地・墓碑等が全く関係の無い人から乗っ取られかけた事件で、久米忠臣氏(私の養祖母ソウの親族)に対策について電話していたら、実は林家も古文書を盗まれているよと語り、以前県の人と一緒に林某氏宅を訪れ古文書を見たが文書は本物であった。しかし、持ち主を県の人は疑っていた。古文書を持つべく家柄かどうかも同時に調べ、後々問題が生じぬ様処理するみたいであり、元々は庄屋の林家の文書が盗まれたと判断したみたいである。もちろん久米家と庄屋の林家との関係は一切秘しての調査をした。現在は安岐町の縁者が所有しているとのことである。
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# by f-hayashi | 2006-06-11 21:17 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

3 初代・本林権四郎のことなど

              【壱 両子林家歴代の章】
d0069627_2111417.jpg 両子の地は両子手永大庄屋が居している地であり、細川氏支配の元和八年(1622年)の人畜改帳に両子久左衛門の名が見え、その後小笠原壱岐守忠知の支配当時及び木付初代松平英親の代まで秋吉氏が住している。承応元年(1652年)久左衛門の名がみえ、貞享弐年丑御分限帳(1685年)には長助の名が見えるが、その後、英親侯の時代に何らかの理由で秋吉家が役を取り上げられ、竹田津手永大庄屋・竹田津重利の子・善兵衛政孝が姓を小串にかえて住している。両子走水観音の棟札には、元祿十三庚辰天(1700年)松平日向守重実公(二代・重栄)・両子手永庄屋善兵衛・両子村小庄屋又右衛門とあり、両子手永大庄屋が秋吉長助から小串善兵衛政孝に取って代られている。
 当時の両子村庄屋・秋吉家と大庄屋秋吉家との関係は恐らく一族であろう。最初に大庄屋が改易となり、後に庄屋の秋吉家も役を取り上げられたと言う次第であった。久左衛門のいた小字・払の家は林一統より誰かがいき家を残させたと考えられる。庄屋の秋吉家は歳神社の東にある三軒の内の一軒が、私の先祖が両子の地に来るまで庄屋をしていた家と古老から聞いたが、歳神社の神職であった家と語る人もいた。
 林(本林)家の先祖は宝永頃に両子の地へ来た。一統の林武生氏がよく語っていたのが、大昔から両子に住んでいた林一族の宗家となってもらったとの一族の口伝が存在していた。
d0069627_1605992.jpg ←写真 屋敷内の伏見稲荷と笹山権現
 初代・本林権四郎が、享保五年(1720年)三十六歳で亡くなっている。その後、本林兵介藤直が年少の為に、横峯・小園の本林加右衛門が享保五年より数年間庄屋をして、後兵介藤直に庄屋職を渡し、三代・三郎兵衛藤美(左介・佐助)・四代忠右衛門介景・五代八平宗芝・六代来輔弼正(来助・宗弼)・七代壮三郎・八代暢・九代理・十代祐輔と続くのである。
 林(本林)家口伝及び一統の武生氏が語った内容の母と男の子が来た場合、先祖権四郎の存在が宙に浮く、父と子ならば権四郎と兵介と言うことになる。しかし口伝を裏づける事実が墓地にある。兵介藤直の墓の右隣に母の墓があり、墓碑の裏面に名主・本林兵助母と刻まれている。通常の場合、本林権四郎の妻ならば、権四郎の室と彫るのが自然と思われるし、あとの墓碑には何々の室と全て彫り込まれている。
 本林権四郎と本林加右衛門(現在は絶家している)は元播州赤穂浅野家家中と考えられる。当時一つの村へ住む場合は身元引受人も必要であり、庄屋の許可また寺請制度もありそう簡単なことではなかったと思われる。当然母と子のみではなく従者も数名はいたであろうが、何らかの伝てを頼って当地に来たと考えるのが正しい見方ではないだろうか。d0069627_1430728.jpg
 初代・本林権四郎の戒名「花岳宗清信士」の花岳の文字が浅野家・大石家の菩提寺の花岳寺を暗示していると父はよく話していた。花岳の謂れを知っている人は畏れ多くてとても使えないが、国家老大石家は主家浅野家とは親族の関係であり、「内蔵助の大叔父である頼母助良重の長男・次男がそれぞれ浅野家の分家で旗本の若狹野浅野家(三千石)・家原浅野家(三千五百石)の上級旗本の家を嗣いだ関係」それ故に墓所も同じ花岳寺である。ほかの赤穂遺臣とは主家に対する気持ちが多少違っていたと考えるのが自然であると思う。 写真 本林権四郎の墓 ↑(戒名「花岳宗清信士」)
 戒名についてはもう一つ着目する点がある。義士の一人で百五十石取り馬廻の木村岡右衛門貞行の討ち入り時に左の肩につけていた金紙の法名「英岳宗俊信士」とが酷似している。浪士は皆、成功しても失敗しても最後は死と覚悟しており、岡右衛門は生前、赤穂正福寺住職・盤珪禅師より戒名をつけてもらい討ち入ったのである。
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# by f-hayashi | 2006-06-11 21:12 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

4 元祿十五年から享保年間まで

                【壱 両子林家歴代の章】
 話を享保五年(1720年)前後の両子村に戻すと、御領主・松平重休侯(三代)の領内廻村が宝永七年(1710年)と正徳三年(1713年)に行われ、両子村善兵衛宅に一泊するとの記録が残っている。大庄屋小串氏は、恐らく享保十七年(1732年)より数年前に両子村から沓掛村へ移動を命ぜられた筈である。その証拠に、両子善兵衛(小串氏)の養子・与惣兵衛忠政が享保十七年・白鬚田原神社に石燈籠一基を寄進している。尚初代・善兵衛政孝には子がなく、妻の甥であり自分の従兄弟の子の与惣兵衛を養子にむかえ、元文元年(1736年)十月二十日に没している。また善兵衛政孝は小串系図のなかで、「東市正様(初代・英親侯)御代ニ大庄屋ニ仰付ケラレ、両子ニ住ス。」とある。両子手永と言うように両子村が元来大庄屋の住む村であるが、なぜ移動させられたか憶測を生む。
 林(本林)家口伝で、本林兵介藤直が豊前中津拾万石・奥平公より召され、仕官する様にと言われたが、帰農すると言って固辞した。しかし奥平公は兵介藤直に刀を下賜した。奥平公より拝領の刀が(父は粟田口と言っていた)、父の子供の頃まで現存していたが、父の叔父・宗生が持ち出し売却してしまったとの事である。
 奥平家は浅野家鉄砲洲屋敷(上屋敷)のすぐ前に江戸屋敷があり、元祿十四年(1701年)三月十四日・播州赤穂五万三千五百石の城主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭の吉良上野介義央に刃傷事件を起こした年及び翌年の吉良邸討ち入り当時は、丹後の宮津領主であったが、享保二年(1717年)豊前中津へ奥平昌成公が入封している。
d0069627_2162314.jpg 本林兵介藤直は両子歳神社拝殿の前に、宝暦期一双の燈籠を寄進しており、裏面には播州赤穂・浅野家の定紋と同じ違イ鷹羽が彫られている。余談であるが、内匠頭の室・阿久里のちの瑤泉院の生家である備後三次浅野家の定紋は、右上から左下に傾いた羽根が下側であり、赤穂浅野家の定紋はそれの逆である。両家とも芸州浅野家の分家であるが、定紋を微妙に異ならしている。d0069627_2165053.jpg
 姓の本林についての私の考えを述べると、読み方は「ホンバヤシ」と読み、変わった読み方である。「モトバヤシ」と読む姓はそれ程多くはないが日本全国には有る。
d0069627_2172044.jpg 元祿十四年(1701年)八月十九日・吉良家は幕府より屋敷替えを命じられている。それまでは千代田城内の丸ノ内の呉服橋内にあったが、本所松坂町二丁目・松平登之助の空き屋敷に移った。後の赤穂義士研究家・学者は幕閣は上野介をついに見限ったと述べ、赤穂の遺臣が上野介の首を討ちやすくしたと言われているが、事実は三月二十六日・高家の役を辞職した為の屋敷移転であったであろう。
 翌・元祿十五年(1702年)極月十四日・浪士達は別々に泉岳寺に参拝し、夜半本所の三ケ所に集合し、最後の集合場所が本所林町五丁目の堀部安兵衛の寓居である。その後、江戸時代の日付では十四日寅ノ刻ごろ、吉良邸表裏両門から討ち入り、卯ノ刻ごろ上野介の御首級を挙げた。決死の集結地を心に止める為に、姓を本林として「ホンバヤシ」と名乗ったと思う。
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# by f-hayashi | 2006-06-11 21:07 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

5 家紋および母屋の間取り

            【壱 両子林家歴代の章】
 次に家紋について述べると、林(本林)家は二ツ巴である。大石家は右二ツ巴であり、巴の大きさが直径の約三分の一である。映画・テレビの忠臣蔵等義士ものは、直径の半分に描かれていることが多いが間違いである。
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 六代・林来輔(宗弼)の残した古文書(上の写真…… 左・右の識別を冠した林一統の連署部分 )には左二ツ巴と書いている。この古文書とは何かといえば、林一統の結束を促す文書である。姓と家紋は本家より頂いたものなので、別家の林家は本家に忠誠を尽くせとの内容である。その中で本家は左二ツ巴・別家は右二ツ巴と書いている。思うに来輔は右・左を勘違いしたと思われる。その事を証明しているのは、当時二十数軒あった別家の林一統の子孫が建てた累代墓等には、皆左二ツ巴の家紋が彫られている。父が祖父壮三郎の墓を建てるにあたっては、その文書通りに左二ツ巴紋を彫らせているが、家の土瓦は凡て右二ツ巴紋になっている。
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 現在の母屋は明治十五・六年頃に壮三郎が建てたが、瓦等は父の来輔が準備していたと思われる。瓦は「東ノ上」という五町歩の山で、松平侯お抱えの瓦焼き職人が焼いたと伝えられている。
 明治に母屋を建て替える前の江戸時代の母屋等建物及び屋敷の図面が家に残されている(下の写真)。近所の老人から、屋敷の入口には大きな長屋門があり上には駕籠が吊されていて小さな潜り戸があったが、とても正面からは入ることが出来なかった。東と西の入口から入ってオシャモトの坪で子供の時、よく遊んだものですと語ったが、話を聞くたびに現在の六百坪の屋敷をながめ、祖父の暢とその弟の宗生を子供心に恨んだものである。戦後、重光葵が衆議院選挙の途中に立ち寄った時、父が挨拶にでるとお父上は健在ですかと聞き、既に亡くなりましたと答えると無言で立ちすくんだそうである。恐らく、葵は子供の時よく遊んだ屋敷の変わり果てた姿を見て、時の流れを感じ林家の栄枯盛衰が脳裏をよぎったと思う。地元に戻ると葵は重光家の本当の親族は林家と松木家のみであるが現在は両家共逼塞していると語り、重光家の親族をかたる人々に釘をさしたとの事である。
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# by f-hayashi | 2006-06-11 21:02 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

6 林家と重光家

             【壱 両子林家歴代の章】
 ここで重光家と林家との関係の始まりを述べると、四代・林忠右衛門介景の室が当時俣見村の邑長であった重光家の女であり、玖美子と八平宗芝を産み、弟の重光定興と都甲氏女との間には子がなかったので、定興は姪の玖美子を養女にして、国東櫻八幡宮・宮司職の岩屋村松木家(和氣姓)の四男・頼之(彦四郎・号は由斉)を養嗣子としたのである。
 林家五代・八平宗芝には子が無かったので、頼之と玖美子の四男・宗弼(来輔)に母の実家である両子林家を嗣がせたのである。
 林一統の林武生氏がよく語っていた八平像がある。八平は村の政(まつりごと)は一切せず三人の弁差に任せ、自分は好き勝手な事をしていたと言う。d0069627_169455.jpg例えば、石の祠の設計をしたりと自由気ままに過ごしていて、芸術家肌であったと聞いていると話してくれた。異母兄弟の文三(文窓)が文化十三年(1816年)母方の従弟の田辺文埼と一緒に、松平親明公の公駕に従って江戸に行き、親明公の紹介があったと推測されるが、南画の大家の写山楼・谷文晁の門に入り、師の文晁より可愛がられ実子の文一・文二に次ぎ三男として文三と命名され谷文三と名乗り、文晁が松平定信に仕えていた関係もあり諸侯に可愛がられ、後に江州粟津家の養子となり本多膳所侯に仕えたが、天保四年(1833年)江戸表にて三十代の若さで亡くなる。そういう関係もあり八平は芸術家肌で、庄屋としては許されないことではあるが政治は好まなかったのであろう。
 ↑ 写真 上 粟津君(文三)七回忌に詠まれた漢詩
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写真 八平 妻の葬儀弔問帳(三浦梅園の孫、安粛の署名部分)
 口伝でも八平の代に家が傾きかけたとある。重光彦四郎は妻の実家であり、また自分の四男・宗弼(来輔)を養子に出した両子林家が心配になり、暇を見つけては馬に乗り両子に来ていたとのことである。
 尚、重光家は父祖代々両子手永俣見村村正であったが、文化元年(1804年)安岐手永山口村村正を命ぜられ定興の代移居する。定興は文化十三年(1816年)九月十八日公命により出仕し、重光宗家は彦四郎に任せ、彦四郎と玖美子の長男・魚彝(宗弼の兄)を連れて杵築中平に住むこととなり、杵築・重光家をおこすこととなった。
 しかし重光家・林家は、肥沃な千石を超える大村である俣見村から山口村への移動命令にはしっくりいかなかったと思える。杵築重光家三代・直愿(魚彝の子)の書いた家史のなかでも、また林忠右衛門介景の墓碑に彫られた文化十二年(1815年)六月九日卒・室俣見村正重光氏とあり、本来ならば山口村正と書くべきところ、敢えてそう書いたところにも読み取ることが出来る。両家共冬の時代を耐え忍び、重縁関係を維持するのである。
 文政二年(1819年)郡奉行・三浦主令(梅園の長男・黄鶴)の死の後、彦四郎の兄で磯矢量平の養子となっていた宗継(岩之丞)が文政三年(1820年)八月二十五日町奉行・郡奉行・普請奉行を兼帯し、また彦四郎の弟で八田浪江の養子となっていた煌(籌左衛門)が文政九年(1826年)より文政十三年(1830年)まで町奉行となり、その後籌左衛門は天保十四年(1843年)より病死する嘉永四年(1851年)五月三日迄郡奉行を勤めている。d0069627_16338100.jpg
 父・重光彦四郎の後ろ楯もあり、林宗弼(来輔)は叔父・八平の時代の家の傾きの建て直しに努力したのである。周りの林一統の結束をはかる為に、新たに何軒かに林姓を与え宗家への忠誠を誓わせたのである。それらの家は裏で「新林」と囁かれていたとのことである。
 写真 林家に伝わる古書への林宗弼(来輔)蔵書印
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# by f-hayashi | 2006-06-11 20:56 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

7 両子の林一統のこと

             【壱 両子林家歴代の章】
 国東市安岐町両子(ふたご) 字 徳代 地図
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 徳代は東口・西口に分かれ、内無常として庄屋本と西の林家(代内の人は下の屋敷と呼び、現当主は林吉和氏)と上の林家(現当主は林清美氏)の三軒であったが、一軒追加して四軒とした。追加した林家は元々の林ではない。徳代は現在林姓がほとんどだが別姓が三軒ある。田辺・清原・代である。内無常の追加の家は某家の隠居した家と言われているが、古老に聞いた話によると、某家は林一族が文祿・慶長の役の時捕虜として連れて来たものの子孫であり、染物をしていた関係で紺屋と呼ばれていたとのことである。
 林武生氏等古老によれば、オシャモトの先祖が大変世話になり名字を与えた山内の林家及び後に林の名字を名乗ることを許された家々と、我々林一族とは違うとよく話していた。一族の口伝が正しいが、姓の違う或老婆が「私の家は貧乏で自分の家で食べる米も無かった様な状態だったので、林一統に加えてもらえなかったと古い人から聞いているが、庄屋一統も米一斗と言う様に昔は皆同じだった。自分の家にも本林と書いた位牌がある」とよく私の母に語っていたとのことである。最近、その家の当主に位牌を見せてもらうと確かに本林と書いており、墓地に案内してもらうと、その家の墓地より少し離れた林止家と分家である林武生家の墓地の間に、その家が管理し掃除をしてきた墓が二基あり一つの墓の裏面に本林姓が彫られている。年代はさほど古くはない、恐らく家が絶え、その家が屋敷と墓及び位牌を受け継ぎ守ってきたと推察される。
 ここで林一統のことを詳しく述べると、我が家が昔から西と上と呼んできた両・林家は昔から親戚関係にあり、他村の山ノ口等村役人層と縁組みをしており、徳代の他の林家とは縁組みを全くしていない。他の林家は過去十二軒程あったが、その内の一軒は代々我が家の譜代(フデ)であり、残りの林家は四組程の本家があり、あと残りはその家からの分家である。後・林姓をもらった家は除いて、譜代の家を含め皆昔は縁組みをしており親戚関係にある。徳代以外に下分に数軒・横峯に数軒林姓がある。
 我が先祖が両子の地へ来た時いた林一族の主筋の家が西の林家であろう。林武生氏がよく語っていた林一族の宗家になってもらったとの口伝は、本林兵介藤直が西の林家の女を娶り、一族の長となったと思われる。屋敷は隣同士であり、山等土地も境を接している所が多い。その後は縁組みはしていない。d0069627_16164720.jpg
 西の林家は井戸と台所が徳代では一軒だけ東側にある。その理由を西の古い人が語ったのが、江戸の昔お殿様が大勢の家臣を引き連れて御庄屋本に来た時、料理が御庄屋本の台所だけでは賄いきれないので東側にあると聞いていると述べた。我が家の口伝でも、御殿様は一寸西の林家に行き、お茶を飲んだこともあったそうである。
 写真 林家墓地の「寶雲齋林宗弼之墓」→
 その西の林家が来輔(宗弼)が庄屋の時代絶え、来輔はこの家は名家であるからと惜しみ、従来からの親族の上の林家の女と横峯小園の本林加右衛門の子孫の男を娶せ、西の林家を残したのである。その後加右衛門家も絶えたが、その分家が二軒とまたその分かれが一軒ある。加右衛門の墓等は親族の西の林家が現在管理している。
林宗家の建て直しに努力した六代・林来輔(宗弼)は惣代年番を重任し、藩内百数人の庄屋が皆旦那様と呼んでいたとのことである。d0069627_16143360.jpg また村では結束を計る為か、林一氏がよく語っていたのが昔は旧暦正月何日かに林一統は御庄屋本へ皆刀を差して集まったものであり、なかには刀が無くなった者は腰に木刀を差して行った。かっての林一統といったら近隣に名が通っていたと誇らしげに話してくれた。
 ← 写真 林来輔が受けた華道の免許状
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# by f-hayashi | 2006-06-11 20:54 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

8 来輔の長男・林 壮三郎――幕末から明治へ

              【壱 両子林家歴代の章】
 林来輔は非常に頭が良かったと聞いているが、従兄の御郡奉行・磯矢匡の存在及び御家老の加藤家との関係もあったと思われる。その来輔も明治元年(慶應四年・1868年)三月五日・四十五歳の若さで没したのである。d0069627_16564574.jpg
 長男・林壮三郎は数えの十六歳で杵築藩両子村庄屋を申しつけられるが、年少の為に隣村の富永村庄屋・三浦喜十二(壮吉)が後見人となる。喜十二は時々我が家に来ていたそうである。或るとき喜十二が風呂に入り、母親の貞子が背中を流してやったのに立腹して刀を持ち出し、仏間の前で腹を切ると言い出し、母等の説得でやっとおさまったとの話が伝えられている。かっては下にみていた三浦家が後見人風を吹かせた事に対しての強い憤りを感じたことであろう。
 写真 安岐町富清の宮畑神社 参道北約50メートル地点に建つ三浦喜十二翁の功績碑(肖像は昭和31年刊・淵上金吾 著『西武蔵村史』口絵から)
 母の貞子は杵築藩溝井村庄屋・宇都宮家の出で、兄は宇都宮雄八郎と言う。夫の来輔が早く亡くなった為、十六歳の長男・壮三郎をはじめ四男、壮三郎の姉・源子をはじめ三女が残され、経済的苦労は無いものの精神的な苦労が大きかったと思える。
 明治五年(1872年)庄屋制度が廃止になる時、本藩領の庄屋が全員杵築の御城へ呼び出されて、ことの説明を受けた。それが終わった後、壮三郎は御家老の加藤氏より特別に家に招かれたが、その席で今後は御家老よりも私の方が上ですねとぬけぬけと言ったとの話が伝えられている。その話を聞き何と失礼なことを言ったのかと思ったが、調べてみると年齢がその時数えの二十歳であり思慮にかけたのであろう。加藤家とは代々近しい間柄であったと伝わっており、現在も加藤家の姫様の羽二重の三枚重の着物や礼儀作法の書の写し等が残っている。
d0069627_1721954.jpg 林壮三郎は戸長や学務委員等は歴任したが政治はあまり好まなかった。経済感覚に勝れ両子山の原野に牛を放牧したり農事に精を出したが、それらはあまり成功しなかった。
 当時郡長をしていた従兄の重光直愿の推挙により教師から玖珠の八幡村村長となっていた実弟の恒策(私の母・三千代の祖父)のすすめにより、佐伯よりナバ(椎茸)杣頭を雇い入れ椎茸栽培に本格的に取り組み成功をおさめる。
 当時の椎茸は森式種駒もなく、くぬぎ・楢の木に鉈目をつけ胞子を自然着生させる方法しかなかったので、成功した人は少なく多くが失敗したそうである。林家は当時山林を多く所有しており、一番広い山で実面積が五十町歩もある山があり椎茸の原木には事欠かなかった。関西方面に移出し大いに儲けた。 写真 ↓ 壮三郎へ赤十字社総裁より贈られた直筆の書
d0069627_15382170.jpg 壮三郎は猟と競馬が大好きで、家一軒分以上もの金をだして二頭の外国馬(サラブレッドと聞いた)を購入している。馬の名は「月虎」と「汗月」と名付けた。その二頭の馬は板張りの馬屋で飼い、毎朝湯を沸かし壮三郎自ら馬の体を拭いたそうであり、下男をはじめ周りの者には絶対に触らせなかったそうである。
 明治・大正の頃は地方の素封家が馬を持ち、草競馬が盛んであった。林家も各地の草競馬に参加し、文ヤン(吉水姓)が専属騎手をつとめ、その手綱さばきは見事であったと語り継がれてきた。宇佐か中津で優勝した記念品の柱時計が家に残っている。優勝の祝賀会の模様を私の子供の頃、林武生氏と秋吉忠氏から聞いた内容は、祝賀会が始まる前にオシャモト(御庄屋本)の門(江戸期の長屋門は大正初期迄あった)の前で大勢の祝い客が集まると、下の方から土煙をあげて一頭の馬が駆けて来て門の前で止まった。その時の馬上の文ヤンの得意気な顔を今でも覚えているとよく話してくれた。d0069627_15453148.jpg
 ちなみに仲の悪かった、富永村の三浦喜十ニと壮三郎は、後に親戚となる。喜十二の一人息子の壮に嫁したのが、壮三郎の長女・百惠であった。 写真 晩年の 三浦百惠
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# by f-hayashi | 2006-06-11 20:52 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

9 林壮三郎の妻および惜しまなかった学資

              【壱 両子林家歴代の章】
 壮三郎は、最初に杵築重光家より直愿の妹であり、父方の従妹である順子を娶るが、順子は十九歳で難産の為死亡する。次に旧糸永村庄屋矢野家の女をもらうが、母の貞子が追い出し、三番目に貞子の姪であり旧夷村庄屋で医師の隈井春兆の娘かぢ を嫁とする (林家に眉を剃ったその写真が残る)d0069627_17233172.jpg
 かぢ は絶世の美人と伝えられている。両子寺の初午の時は門を開き下の坪に大きな木樽に仕込んだドブロクを初午詣でで家の前を通る人々に振る舞った。その時は、かぢ自らドブロクを注いで回った。人々は年一回林のおかみ様の顔を拝まれると楽しみにしていたとのことである。しかし壮三郎との仲はあまり良くなく、生涯壮三郎は順子のことが忘れられず、死に際して十九歳で死んだ妻のお順の側に埋葬してくれと遺言し亡くなる。
 その壮三郎の功績に、親族の子弟への学資援助がある。重光宗家の二男・煥古は杵築藩士荒木周古の養子となり、妻は従妹で壮三郎の妹サイを娶り、長男の道・二男の義穂・三男の哲也をもうける。d0069627_16124359.jpg戸長職や県議会が開かれると議員に選出されたが、明治二十二年八月三十一日・四十三歳の若さで亡くなり、サイと三人の男の子が残される。煥古は三人の子の学資金を残していたが、煥古の実弟重光彦三郎がその学資金を使い込んだ為にサイは学資に困ったが、兄の壮三郎が長男・道の東京帝国大学卒業迄の学資を援助し、道は後に三井財閥の重役となり、伯父・壮三郎の恩に報いる為、逼塞し学資に困っていた父・理をはじめ兄弟の学資を援助するのである。 写真 新宿百人町の荒木家 →
(荒木家を訪問した壮三郎と荒木の親族の記念写真を林家アルバムより取り込み)

 煥古の二男・義穂は師範学校に行き教師となり、後叔父の彦三郎のあと南安岐村村長となる。義穂は一時重光宗家二十四代直幹(大策)の養子となったが、素行が良くなかった為に追い出された。それ故に兄弟の中でただ一人重光姓を名乗っている。
d0069627_1622435.jpg 宗家の長男・重光直幹は最初に壮三郎の姉・源子を娶るが、源子は二十一歳の若さで亡くなり、次に隈井春兆の娘・毛登子をもらうが遂に子に恵まれなかった。弟の煥古の二男義穂を養子とするが、前に書いた様な事情があり、弟の彦三郎(←写真は晩年の重光彦三郎)を準養子として重光家二十五代を継がせる。彦三郎は最初に岩屋村庄屋の小山田家女を娶るが離縁し、次に隈井春兆の娘・タ子(種)を妻とする。一人娘の重子が早世した為に杵築重光家二男・葵(妹の松子と直愿の子)を養子に迎える。
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# by f-hayashi | 2006-06-11 20:50 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

10 ふたたび林家と重光家

               【壱 両子林家歴代の章】
 話が前後するが、重光義穂の妻は元松平家御典医の松成家長女コクである。コクの妹は林壮三郎の長男・暢の妻イシである。義穂は妻妾同居であり、コクの死に水をとったのが妾という哀れさであった。
 煥古の三男・哲也は旧制杵築中学の三期生で父方の従兄弟・葵と同期であり、従兄弟同士五高から東京帝国大学に進み、卒業後哲也は農林省・葵は外務省にはいる。哲也が東大在学中にユダヤ教について書いた小論文がのっている小冊子を、学資でお世話になった伯父・壮三郎宛に送ってきているが見事な文章である。しかし、哲也は若くして亡くなる。
d0069627_16284532.jpg写真 松子と重光直愿(いとこ婚であった)
 次に杵築重光家への援助である。林壮三郎の従兄である重光直愿は大野郡郡長等を歴任し、明治二十七年国東郡郡長を辞任し下野した為に、林家から相当額を援助したとのことである。直愿の妻は重光宗家景行(立平)の三女・松子であり、松子もまた壮三郎の従妹という関係にある。林家と重光家は二重三重に縁組みをしており、壮三郎の最初の妻は杵築重光家の出であり、その当時の妻は隈井春兆の娘である。又その姉妹が松子の兄・重光直幹の妻と重光彦三郎の妻となっていた。その三姉妹は壮三郎の母・貞子の姪に当たり、壮三郎の母方の従姉妹でもあった。壮三郎の長男・暢は毛登子・タ子姉妹の甥にあたる。
 重光直愿・松子夫婦の長男・蔟(アツム)は杵築中学の第一期生で五高から東京帝国大学へと進み、東京帝国大学工学部教授等を歴任して最後は日本海事協会名誉会長となる。二男・葵(号・向陽)は明治三十一年伯父の重光彦三郎の養子となり、杵築中学・五高・東京帝国大学へと進み外交官となる。三男・蔵(オサム)も兄・葵のコースを踏襲して、戦前は東亜同文書院の教授となる。戦後は大分県に戻り大分大学経済学部の教授を勤め、杵築重光家をまもるのである。女性も高等女学校を出し、皆教育している。
写真↓林家が藤子を嫁に迎える際に重光家の各氏に贈った物品目録
d0069627_17362364.jpg 杵築重光家二女・藤子は林壮三郎の長男・暢(トオル)に嫁すが、一年足らずで林家を後にする。林暢が大分県椎茸組合の理事をしていて、仕事で大分県庁に行き留守の時、夫の顔を見たら涙がでますと言い、家人の引き止めるのも聞かず林家を出る。後に京都の医師岡部某と再婚し、大正七年十月一日三十歳で亡くなる。 写真 林 暢が受けたシイタケ輸出の許可証 ↓d0069627_1737372.jpg
 林家では藤子が家を出た理由が判らなかった。当時の林家は下男・下女も多く大所帯であったので、そのことが煩わしく暢へ一緒に町へ出ようと盛んに言っていたとのことである。それが無理ならば村の教師になっても良いかと言ったが、林家からは職業婦人は出さないと反対された。藤子は一番仲の良い兄・葵に相談したところ、そんなつまらない男なら別れろと言われ別れたと伝えられており、暢の妹のイネ(当時のカナ字体で「イ子」と表記し「いね」と読む)は、ミズーリ号上の降伏文書の調印及びA級戦犯を喜んだそうである。
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# by f-hayashi | 2006-06-11 20:49 | 林家の歴史