2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 ここで重光家と林家との関係の始まりを述べると、四代・林忠右衛門介景の室が当時俣見村の邑長であった重光家の女であり、玖美子と八平宗芝を産み、弟の重光定興と都甲氏女との間には子がなかったので、定興は姪の玖美子を養女にして、国東櫻八幡宮・宮司職の岩屋村松木家(和氣姓)の四男・頼之(彦四郎・号は由斉)を養嗣子としたのである。 林家五代・八平宗芝には子が無かったので、頼之と玖美子の四男・宗弼(来輔)に母の実家である両子林家を嗣がせたのである。 林一統の林武生氏がよく語っていた八平像がある。八平は村の政(まつりごと)は一切せず三人の弁差に任せ、自分は好き勝手な事をしていたと言う。例えば、石の祠の設計をしたりと自由気ままに過ごしていて、芸術家肌であったと聞いていると話してくれた。異母兄弟の文三(文窓)が文化十三年(1816年)母方の従弟の田辺文埼と一緒に、松平親明公の公駕に従って江戸に行き、親明公の紹介があったと推測されるが、南画の大家の写山楼・谷文晁の門に入り、師の文晁より可愛がられ実子の文一・文二に次ぎ三男として文三と命名され谷文三と名乗り、文晁が松平定信に仕えていた関係もあり諸侯に可愛がられ、後に江州粟津家の養子となり本多膳所侯に仕えたが、天保四年(1833年)江戸表にて三十代の若さで亡くなる。そういう関係もあり八平は芸術家肌で、庄屋としては許されないことではあるが政治は好まなかったのであろう。 ↑ 写真 上 粟津君(文三)七回忌に詠まれた漢詩 口伝でも八平の代に家が傾きかけたとある。重光彦四郎は妻の実家であり、また自分の四男・宗弼(来輔)を養子に出した両子林家が心配になり、暇を見つけては馬に乗り両子に来ていたとのことである。 尚、重光家は父祖代々両子手永俣見村村正であったが、文化元年(1804年)安岐手永山口村村正を命ぜられ定興の代移居する。定興は文化十三年(1816年)九月十八日公命により出仕し、重光宗家は彦四郎に任せ、彦四郎と玖美子の長男・魚彝(宗弼の兄)を連れて杵築中平に住むこととなり、杵築・重光家をおこすこととなった。 しかし重光家・林家は、肥沃な千石を超える大村である俣見村から山口村への移動命令にはしっくりいかなかったと思える。杵築重光家三代・直愿(魚彝の子)の書いた家史のなかでも、また林忠右衛門介景の墓碑に彫られた文化十二年(1815年)六月九日卒・室俣見村正重光氏とあり、本来ならば山口村正と書くべきところ、敢えてそう書いたところにも読み取ることが出来る。両家共冬の時代を耐え忍び、重縁関係を維持するのである。 文政二年(1819年)郡奉行・三浦主令(梅園の長男・黄鶴)の死の後、彦四郎の兄で磯矢量平の養子となっていた宗継(岩之丞)が文政三年(1820年)八月二十五日町奉行・郡奉行・普請奉行を兼帯し、また彦四郎の弟で八田浪江の養子となっていた煌(籌左衛門)が文政九年(1826年)より文政十三年(1830年)まで町奉行となり、その後籌左衛門は天保十四年(1843年)より病死する嘉永四年(1851年)五月三日迄郡奉行を勤めている。 父・重光彦四郎の後ろ楯もあり、林宗弼(来輔)は叔父・八平の時代の家の傾きの建て直しに努力したのである。周りの林一統の結束をはかる為に、新たに何軒かに林姓を与え宗家への忠誠を誓わせたのである。それらの家は裏で「新林」と囁かれていたとのことである。 写真 林家に伝わる古書への林宗弼(来輔)蔵書印 #
by f-hayashi
| 2006-06-11 20:56
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 国東市安岐町両子(ふたご) 字 徳代 地図 林武生氏等古老によれば、オシャモトの先祖が大変世話になり名字を与えた山内の林家及び後に林の名字を名乗ることを許された家々と、我々林一族とは違うとよく話していた。一族の口伝が正しいが、姓の違う或老婆が「私の家は貧乏で自分の家で食べる米も無かった様な状態だったので、林一統に加えてもらえなかったと古い人から聞いているが、庄屋一統も米一斗と言う様に昔は皆同じだった。自分の家にも本林と書いた位牌がある」とよく私の母に語っていたとのことである。最近、その家の当主に位牌を見せてもらうと確かに本林と書いており、墓地に案内してもらうと、その家の墓地より少し離れた林止家と分家である林武生家の墓地の間に、その家が管理し掃除をしてきた墓が二基あり一つの墓の裏面に本林姓が彫られている。年代はさほど古くはない、恐らく家が絶え、その家が屋敷と墓及び位牌を受け継ぎ守ってきたと推察される。 ここで林一統のことを詳しく述べると、我が家が昔から西と上と呼んできた両・林家は昔から親戚関係にあり、他村の山ノ口等村役人層と縁組みをしており、徳代の他の林家とは縁組みを全くしていない。他の林家は過去十二軒程あったが、その内の一軒は代々我が家の譜代(フデ)であり、残りの林家は四組程の本家があり、あと残りはその家からの分家である。後・林姓をもらった家は除いて、譜代の家を含め皆昔は縁組みをしており親戚関係にある。徳代以外に下分に数軒・横峯に数軒林姓がある。 我が先祖が両子の地へ来た時いた林一族の主筋の家が西の林家であろう。林武生氏がよく語っていた林一族の宗家になってもらったとの口伝は、本林兵介藤直が西の林家の女を娶り、一族の長となったと思われる。屋敷は隣同士であり、山等土地も境を接している所が多い。その後は縁組みはしていない。 西の林家は井戸と台所が徳代では一軒だけ東側にある。その理由を西の古い人が語ったのが、江戸の昔お殿様が大勢の家臣を引き連れて御庄屋本に来た時、料理が御庄屋本の台所だけでは賄いきれないので東側にあると聞いていると述べた。我が家の口伝でも、御殿様は一寸西の林家に行き、お茶を飲んだこともあったそうである。 写真 林家墓地の「寶雲齋林宗弼之墓」→ その西の林家が来輔(宗弼)が庄屋の時代絶え、来輔はこの家は名家であるからと惜しみ、従来からの親族の上の林家の女と横峯小園の本林加右衛門の子孫の男を娶せ、西の林家を残したのである。その後加右衛門家も絶えたが、その分家が二軒とまたその分かれが一軒ある。加右衛門の墓等は親族の西の林家が現在管理している。 林宗家の建て直しに努力した六代・林来輔(宗弼)は惣代年番を重任し、藩内百数人の庄屋が皆旦那様と呼んでいたとのことである。 また村では結束を計る為か、林一氏がよく語っていたのが昔は旧暦正月何日かに林一統は御庄屋本へ皆刀を差して集まったものであり、なかには刀が無くなった者は腰に木刀を差して行った。かっての林一統といったら近隣に名が通っていたと誇らしげに話してくれた。 ← 写真 林来輔が受けた華道の免許状 #
by f-hayashi
| 2006-06-11 20:54
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 林来輔は非常に頭が良かったと聞いているが、従兄の御郡奉行・磯矢匡の存在及び御家老の加藤家との関係もあったと思われる。その来輔も明治元年(慶應四年・1868年)三月五日・四十五歳の若さで没したのである。 長男・林壮三郎は数えの十六歳で杵築藩両子村庄屋を申しつけられるが、年少の為に隣村の富永村庄屋・三浦喜十二(壮吉)が後見人となる。喜十二は時々我が家に来ていたそうである。或るとき喜十二が風呂に入り、母親の貞子が背中を流してやったのに立腹して刀を持ち出し、仏間の前で腹を切ると言い出し、母等の説得でやっとおさまったとの話が伝えられている。かっては下にみていた三浦家が後見人風を吹かせた事に対しての強い憤りを感じたことであろう。 写真 安岐町富清の宮畑神社 参道北約50メートル地点に建つ三浦喜十二翁の功績碑(肖像は昭和31年刊・淵上金吾 著『西武蔵村史』口絵から) 母の貞子は杵築藩溝井村庄屋・宇都宮家の出で、兄は宇都宮雄八郎と言う。夫の来輔が早く亡くなった為、十六歳の長男・壮三郎をはじめ四男、壮三郎の姉・源子をはじめ三女が残され、経済的苦労は無いものの精神的な苦労が大きかったと思える。 明治五年(1872年)庄屋制度が廃止になる時、本藩領の庄屋が全員杵築の御城へ呼び出されて、ことの説明を受けた。それが終わった後、壮三郎は御家老の加藤氏より特別に家に招かれたが、その席で今後は御家老よりも私の方が上ですねとぬけぬけと言ったとの話が伝えられている。その話を聞き何と失礼なことを言ったのかと思ったが、調べてみると年齢がその時数えの二十歳であり思慮にかけたのであろう。加藤家とは代々近しい間柄であったと伝わっており、現在も加藤家の姫様の羽二重の三枚重の着物や礼儀作法の書の写し等が残っている。 林壮三郎は戸長や学務委員等は歴任したが政治はあまり好まなかった。経済感覚に勝れ両子山の原野に牛を放牧したり農事に精を出したが、それらはあまり成功しなかった。 当時郡長をしていた従兄の重光直愿の推挙により教師から玖珠の八幡村村長となっていた実弟の恒策(私の母・三千代の祖父)のすすめにより、佐伯よりナバ(椎茸)杣頭を雇い入れ椎茸栽培に本格的に取り組み成功をおさめる。 当時の椎茸は森式種駒もなく、くぬぎ・楢の木に鉈目をつけ胞子を自然着生させる方法しかなかったので、成功した人は少なく多くが失敗したそうである。林家は当時山林を多く所有しており、一番広い山で実面積が五十町歩もある山があり椎茸の原木には事欠かなかった。関西方面に移出し大いに儲けた。 写真 ↓ 壮三郎へ赤十字社総裁より贈られた直筆の書 壮三郎は猟と競馬が大好きで、家一軒分以上もの金をだして二頭の外国馬(サラブレッドと聞いた)を購入している。馬の名は「月虎」と「汗月」と名付けた。その二頭の馬は板張りの馬屋で飼い、毎朝湯を沸かし壮三郎自ら馬の体を拭いたそうであり、下男をはじめ周りの者には絶対に触らせなかったそうである。 明治・大正の頃は地方の素封家が馬を持ち、草競馬が盛んであった。林家も各地の草競馬に参加し、文ヤン(吉水姓)が専属騎手をつとめ、その手綱さばきは見事であったと語り継がれてきた。宇佐か中津で優勝した記念品の柱時計が家に残っている。優勝の祝賀会の模様を私の子供の頃、林武生氏と秋吉忠氏から聞いた内容は、祝賀会が始まる前にオシャモト(御庄屋本)の門(江戸期の長屋門は大正初期迄あった)の前で大勢の祝い客が集まると、下の方から土煙をあげて一頭の馬が駆けて来て門の前で止まった。その時の馬上の文ヤンの得意気な顔を今でも覚えているとよく話してくれた。 ちなみに仲の悪かった、富永村の三浦喜十ニと壮三郎は、後に親戚となる。喜十二の一人息子の壮に嫁したのが、壮三郎の長女・百惠であった。 写真 晩年の 三浦百惠 → #
by f-hayashi
| 2006-06-11 20:52
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 壮三郎は、最初に杵築重光家より直愿の妹であり、父方の従妹である順子を娶るが、順子は十九歳で難産の為死亡する。次に旧糸永村庄屋矢野家の女をもらうが、母の貞子が追い出し、三番目に貞子の姪であり旧夷村庄屋で医師の隈井春兆の娘かぢ を嫁とする (林家に眉を剃ったその写真が残る) 。 かぢ は絶世の美人と伝えられている。両子寺の初午の時は門を開き下の坪に大きな木樽に仕込んだドブロクを初午詣でで家の前を通る人々に振る舞った。その時は、かぢ自らドブロクを注いで回った。人々は年一回林のおかみ様の顔を拝まれると楽しみにしていたとのことである。しかし壮三郎との仲はあまり良くなく、生涯壮三郎は順子のことが忘れられず、死に際して十九歳で死んだ妻のお順の側に埋葬してくれと遺言し亡くなる。 その壮三郎の功績に、親族の子弟への学資援助がある。重光宗家の二男・煥古は杵築藩士荒木周古の養子となり、妻は従妹で壮三郎の妹サイを娶り、長男の道・二男の義穂・三男の哲也をもうける。戸長職や県議会が開かれると議員に選出されたが、明治二十二年八月三十一日・四十三歳の若さで亡くなり、サイと三人の男の子が残される。煥古は三人の子の学資金を残していたが、煥古の実弟重光彦三郎がその学資金を使い込んだ為にサイは学資に困ったが、兄の壮三郎が長男・道の東京帝国大学卒業迄の学資を援助し、道は後に三井財閥の重役となり、伯父・壮三郎の恩に報いる為、逼塞し学資に困っていた父・理をはじめ兄弟の学資を援助するのである。 写真 新宿百人町の荒木家 → (荒木家を訪問した壮三郎と荒木の親族の記念写真を林家アルバムより取り込み) 煥古の二男・義穂は師範学校に行き教師となり、後叔父の彦三郎のあと南安岐村村長となる。義穂は一時重光宗家二十四代直幹(大策)の養子となったが、素行が良くなかった為に追い出された。それ故に兄弟の中でただ一人重光姓を名乗っている。 宗家の長男・重光直幹は最初に壮三郎の姉・源子を娶るが、源子は二十一歳の若さで亡くなり、次に隈井春兆の娘・毛登子をもらうが遂に子に恵まれなかった。弟の煥古の二男義穂を養子とするが、前に書いた様な事情があり、弟の彦三郎(←写真は晩年の重光彦三郎)を準養子として重光家二十五代を継がせる。彦三郎は最初に岩屋村庄屋の小山田家女を娶るが離縁し、次に隈井春兆の娘・タ子(種)を妻とする。一人娘の重子が早世した為に杵築重光家二男・葵(妹の松子と直愿の子)を養子に迎える。 #
by f-hayashi
| 2006-06-11 20:50
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 話が前後するが、重光義穂の妻は元松平家御典医の松成家長女コクである。コクの妹は林壮三郎の長男・暢の妻イシである。義穂は妻妾同居であり、コクの死に水をとったのが妾という哀れさであった。 煥古の三男・哲也は旧制杵築中学の三期生で父方の従兄弟・葵と同期であり、従兄弟同士五高から東京帝国大学に進み、卒業後哲也は農林省・葵は外務省にはいる。哲也が東大在学中にユダヤ教について書いた小論文がのっている小冊子を、学資でお世話になった伯父・壮三郎宛に送ってきているが見事な文章である。しかし、哲也は若くして亡くなる。 写真 松子と重光直愿(いとこ婚であった) 次に杵築重光家への援助である。林壮三郎の従兄である重光直愿は大野郡郡長等を歴任し、明治二十七年国東郡郡長を辞任し下野した為に、林家から相当額を援助したとのことである。直愿の妻は重光宗家景行(立平)の三女・松子であり、松子もまた壮三郎の従妹という関係にある。林家と重光家は二重三重に縁組みをしており、壮三郎の最初の妻は杵築重光家の出であり、その当時の妻は隈井春兆の娘である。又その姉妹が松子の兄・重光直幹の妻と重光彦三郎の妻となっていた。その三姉妹は壮三郎の母・貞子の姪に当たり、壮三郎の母方の従姉妹でもあった。壮三郎の長男・暢は毛登子・タ子姉妹の甥にあたる。 重光直愿・松子夫婦の長男・蔟(アツム)は杵築中学の第一期生で五高から東京帝国大学へと進み、東京帝国大学工学部教授等を歴任して最後は日本海事協会名誉会長となる。二男・葵(号・向陽)は明治三十一年伯父の重光彦三郎の養子となり、杵築中学・五高・東京帝国大学へと進み外交官となる。三男・蔵(オサム)も兄・葵のコースを踏襲して、戦前は東亜同文書院の教授となる。戦後は大分県に戻り大分大学経済学部の教授を勤め、杵築重光家をまもるのである。女性も高等女学校を出し、皆教育している。 写真↓林家が藤子を嫁に迎える際に重光家の各氏に贈った物品目録 杵築重光家二女・藤子は林壮三郎の長男・暢(トオル)に嫁すが、一年足らずで林家を後にする。林暢が大分県椎茸組合の理事をしていて、仕事で大分県庁に行き留守の時、夫の顔を見たら涙がでますと言い、家人の引き止めるのも聞かず林家を出る。後に京都の医師岡部某と再婚し、大正七年十月一日三十歳で亡くなる。 写真 林 暢が受けたシイタケ輸出の許可証 ↓ 林家では藤子が家を出た理由が判らなかった。当時の林家は下男・下女も多く大所帯であったので、そのことが煩わしく暢へ一緒に町へ出ようと盛んに言っていたとのことである。それが無理ならば村の教師になっても良いかと言ったが、林家からは職業婦人は出さないと反対された。藤子は一番仲の良い兄・葵に相談したところ、そんなつまらない男なら別れろと言われ別れたと伝えられており、暢の妹のイネ(当時のカナ字体で「イ子」と表記し「いね」と読む)は、ミズーリ号上の降伏文書の調印及びA級戦犯を喜んだそうである。 #
by f-hayashi
| 2006-06-11 20:49
| 林家の歴史
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