両子の林家

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2006年 06月 11日

21 両子寺檀徒と京言葉

   【両子林家の歴史……弐 赤穂浪士ゆかりの章(信)d0069627_16502677.jpg
 天台宗の寺院である両子寺は松平侯の治世下では格式高き寺であり、本山住職は叡山よりの高僧であった。内匠頭の刃傷事件の時は一時の感情による不公平な裁決を申し渡した綱吉も、「君辱めらるれば、臣死す」という武士道の実践に感動し、内蔵助がその不公平な裁決に異議をとなえたことには気づかず、(綱吉は昌平坂学問所で教える程の教養人であるから、君子豹変すという誠の意味が分かっていたと私は思う。)天台座主を兼ねる日光輪王寺門主・公弁法親王に、赤穂浪士の助命を相談している。
 両子寺は天台宗の日光山末寺である。江戸末期か明治の住職の赤松円隣・吉武豪仙等の名は林家口伝に残っている。何時の時代の天台座主か分からないが、その書が現存している。
 写真 右 林家所蔵「天台座主大僧正」の書(戈と子を重ねた字に成か)
 両子寺は糸永住職(武蔵の狭間の出身)の時最悪の事態に陥る。その後都甲出身の寺田氏が住職となる。暢は寺田氏の住職就任に猛反対をする。暢は比叡山の本山に掛け合い反対するが、昔の様に藩主による財政面での援助も無く、時代も変わり延暦寺もその申し入れには応じることが出来なかった。今も暢が書いた延暦寺への書状の控が残っている。それにより両子寺檀徒(江戸期は本山檀家は少ない、林一統でも大半は坊檀家であるが、明治以降は坊が潰れ本山檀家に組み込まれる。)である徳代の林一統は、我が家を除き皆黒住教等に宗旨替えをすることとなる。そのことを知らない理は父・暢の葬式を両子寺二代目住職寺田豪延氏に頼むと、未亡人である豪延和尚の母親は理に皮肉を言ったが、それをたしなめ豪延和尚が快く引き受け、徳代で一軒だけ両子寺の檀家に戻る。あとの林は今日迄神道のままである。
写真  両子寺の無明橋から仁王像d0069627_18445647.jpg
(故・寺田豪延師の写真は同氏編の昭和62年刊『両子寺史』から)
 林(本林)家は父の代迄、母親を呼ぶのに「オカアハン」と言っていた。徳代では人の名前のあとに何々ハンと言う。例えば、父のことを理ハン・武生さんのことを武ハン又は武生ハン・秋吉忠さんのことをターハン・林一さんのことをハジメハンと言う等々である。同志社時代京都で生活して分かっているが、ハンと付けるのは京言葉である。田舎の人が言うと鄙びて聞こえるが、不思議なもので京都の人が言うと何となく雅に聞こえる。どうして陸の孤島と云われた国東半島の真ん中に位置する両子・徳代に京の言葉が現在も使われているのか、恐らく先祖である「母と子」が話していた言葉が残ったのであろう。 写真 林家の祠(おやしろ)にある石の花たて ↓
d0069627_18161527.jpg 六代・林宗弼(来輔)も赤穂義士のことを調べている。重光宗家の四男に生まれ、母の玖美子の実家である両子林家に養子に来て、口伝を叔父・八平宗芝から聞いたことであろう。切腹の二日前の二月二日・松平丹後守様人々御中・大石内蔵助良雄・との古文書が残っている。二十数年前にその古文書を県史編纂室の橋本主幹に解読してもらったところ、この文書は判じものであるから私には意味が分からないとのことであった。橋本氏は昔の武士は教養があり、和歌や古の書籍から引用して、はっきりと述べない傾向のものが多いと語った。本文の間に書かれた小さな字のことを聞くと、昔は追伸をそのように書いたと教えてくれた。
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# by f-hayashi | 2006-06-11 16:58 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

22 シットダ(七島田)でのある事件

   【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(1)】
 長々と書いてきたが書き足りないことを、次のように9回に分けて書く。

d0069627_16271050.jpg写真 六月の七島藺(シットウ・イ)栽培風景……現在は両子地区では、この畳イグサ用の商品作物を栽培しておらず「七島田」は見られない。写真は、両子川の8キロほど下流、糸永地区にて撮影。


(1) シットダ(七島田)でのある事件
(2) ターハン・秋吉忠氏から聞いたこと 
(3) 慶應ニ年の百姓一揆――相馬太夫こと松木清孝
(4) 一揆の加担者か――その後の相馬太夫
(5) 文政元年の百姓一揆
(6) 両子村の石高ならびに墓石や墓碑
(7) 両子に元々いた林一族――『國東半島史』から
(8) 岡山県の林さん――林家のルーツ探し
(9) 名家だらけの東国東――出自の詐称

 林(本林)家代々の男子の精神が分かる事例を書くと、林壮三郎の代の出来事である。両子のある人が、夫婦で七島田で農作業をしている時に口論となり鎌の裏で叩いたつもりが、常軌を逸していたのであろう鎌の刃が背中から肺に達し死んでしまった。某氏は我が家に急いで来て、事の成り行きを壮三郎に話すと、壮三郎は実弟の善造(越家の養子となり、教師となるが、明治十八年・教師を辞めて大分縣立甲種醫學校に入学し、後に第五高等學校長崎醫學部に転じ明治二十三年医師となる。明治二十九年第五高等學校醫學部より醫學得業士の称号を認許せらる。)を安岐の小川より急遽両子に呼び寄せ、事故死に成る様にさせるが、後に親族等から出た噂により某氏は罪を問われ刑務所に服役する。越善造も医師の資格を一時停止させられるが直ぐに復帰する。
d0069627_1636622.jpg     写真 越善造とその家族
 某氏は模範囚で両子に帰るが、養子の身でもあり家に入れてもらえず我が子にも会わせてもらえなかった。某氏は壮三郎を訪れ、「御隠居様自分は炭坑で働くから子供達のことは気に掛けて下さい。」とお願いした。しかし壮三郎は情の人と私は思う。いかなる理由があろうと妻殺しは妻殺しである。ましてやその男の女性関係での口喧嘩がもとでの殺人である。そのことが分からずその男に騙されたのではない。小ざかしい人は取り合わないと思うが、壮三郎は「お前は車屋(林家所有の水車小屋)で働け、俺が時間をかけて説得する。」と言う。その後許されて親子対面となるが、その男の養父母は隠居して別に家を建てて住む。
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# by f-hayashi | 2006-06-11 16:35 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

23 ターハン・秋吉忠氏から聞いたこと

    【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(2)】
写真↓ 両子の徳代橋付近(もと林家の水車小屋があった)
d0069627_16175499.jpg 両子の下分の秋吉忠氏から色々な林家の話を聞く。忠(ターハン)は異相の持ち主であった。普通の人は後頭部が扁平かでていて頭頂部は平らであるが、ターハンは頭頂部が突き出ていた。大柄な男で、週のうち一・二回は我が家に来ていた。強烈な個性の人物だった為に父はあまり相手をしなかった。父は家柄の話をする人を嫌っており、私に「人柄が家柄をつくる」とよく話した。林家に誇りは持っているが、出自に対しての他人の品定めは一切しなかった。しかし母と私はよくターハンと話をした。ターハンの秋吉家はかっての庄屋の秋吉家の一族の家である。ターハンは家柄に特に詳しく、東国東の家々の格の上中下をいつも話した。我が家の事を「シャーモト」と呼び、東国東でシャーモトの右に出る家は無いとよく話した。今両子寺の檀家であると威張る家があるが、昔はシャーモトとか秋吉家とか極一部の家で多くは坊檀家であったと話した。ターハンはお世辞を言う様な類いの人物ではなかった。村人は零落した林家を馬鹿にすることは出来なかった。そんなことをしたらターハンが黙ってはいないことを皆知っていた。
d0069627_1828764.jpg 写真 故・秋吉忠氏宅(歳神社の隣)→
 次に暢の時代に、下男(男衆・オトコシ)の土谷学氏が妻のスエがありながら、未亡人のヨシコ(武蔵の出・両子吉水氏に嫁す)と良い仲になり、暢は二人を一時林家に匿う。後に二人は福岡の炭坑で働き、暫くして両子に帰る。暢は我が家の田をつくらせ、車屋に住まわす。私が子供の頃ヨシコは孫を連れていつも我が家に来ていた。学とスエの子の正行の嫁はヨシコの姪であり、武蔵の麻田の出身である。正行氏も子供の時、我が家でよく過ごしたのであろう。大人になっても懐かしいのか、用事も無いのに何か用事をつくり、我が家によく来た。
 一統の林清氏とその姉達も我が家で育つ。父親が戦死した為に生活も苦しく、母親は農作業を一人でしなければならず、とても子供の面倒をみることが出来なかった。林家も零落したとはいえ、まだ周囲の家よりは裕福であった。後に姉達は里帰りをするとかならず、オシャモトのおじさんには大変お世話になったと暢の位牌に詣ったものである。
 現在、庄屋は藩の末端組織で農民を搾取した代表と見なされているが、それは一面的な見方であると考える。多くの庄屋は教養もあり、その家その家の誇りを持ち人格的にも優れた人が多かったと思う。上にも媚びず、下の者が困っていたら手を差し伸べていた庄屋のほうが多かったと考えられる。日出の木下領等の庄屋とは違い、杵築本藩領の庄屋は士分待遇であり、農民と同じとの意識ではなく、民をいたわる気持ちがあったと思う。

 【参照】日出藩での庄屋の苦悶は、中山 善之先生のたらい廻しされた 日出藩 大庄屋物語が参考になる。なお中山先生は、大分県下に唯一現存する藩校建造物、致道館(JR 日豊線「暘谷(ヨウコク)」駅から徒歩3分)の館長として金・土・日に在館。
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# by f-hayashi | 2006-06-11 16:22 | 林家の歴史
2006年 06月 10日

24 慶應ニ年の百姓一揆――相馬太夫こと松木清孝

   【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(3)】
 慶應二年(1866年)の百姓一揆について多くの町史等には間違った内容の記述がある。それを述べる為には、母の実家の松木家について語らねばならない。 (写真 松木家の墓域にて)d0069627_18353729.jpg
 松木(和氣)石見守清宣(室・岩屋村正小山田家女)には六人の男の子がいる。長男の佐渡守清重(室・丸小野村正麻生家女)・次男の宗継(岩之丞・松平家中の磯矢量平の養子となり、郡奉行等を勤める)・三男の嘉内(早世)・四男が重光宗家の養子となった頼之(彦四郎・由齊)である。どうして重光宗家というかと言えば、分家が赤水村庄屋の重光家であり、また赤水重光家から川原村庄屋と吉木村庄屋をだす。それと白木原村庄屋も分家である。五男の煌(籌左衛門)は松平家中の八田浪江の養子となり、後に郡奉行等を勤める。六男は丹波守清軽である。長男の清重に子が無かった為に、末弟の清軽が松木家を継ぐ、妻は神職の生地家の娘である。その間に生まれたのが松木家三十一代相馬太夫こと和氣清孝である。妻は岐部村正有永家女の加恵子である。有永家と医家の古城家及び医家の山下家は親族の関係であった。現在有永家は血筋が絶え、家屋敷は「国見町ふるさと展示館」となり公開されている。血脈は無いが家を継いだ人は大分市で医師をしている。清孝と加恵子の子がトシ(後、林恒策の妻となる)と清敦である。
 松木相馬太夫(清孝)は若い時、江戸と京に遊学する。郷里に帰り神職の家を継ぐが、慶應の一揆の時に刀を差し加わる。後に捕まり座敷牢に入れられる。一揆の時の郡奉行は磯矢匡であり、清孝と匡は従兄弟の関係である。岩屋村庄屋小山田家は祖母の出た家であり、伯父重光彦四郎と玖美子の三女・屋於子(柳子)の嫁ぎ先でもある。どうして一揆の首謀者の岩屋村栗林三代松や赤松村吉助等が小山田家の屋敷に忍び込み、奉行と庄屋の話を全部書き取り強訴をするのであろうか。これは作り話である。一揆の標的は藩や庄屋では無く、邪まな商人と極一部の庄屋であると考えられる。一揆の被害にあった庄屋は麻田村綾部家・瀬戸田村中島家・吉松村後藤家(本林三郎兵衛藤美の妻の実家であるから三代前の親戚)・中園村小俣家等である。特に被害を蒙ったのは郷町人等の商人が多い。d0069627_16121552.jpg
 相馬太夫は私の母・三千代の曾祖父である。一揆に同調して参加したと伝えられている。一揆の首謀者達がその親族の家に忍び込み郡奉行と庄屋の話を盗み聞きなどはたしてするであろうか。文政元年の一揆と同じように真実は商人達の暴利を貪ることに対しての一揆であったと考えられる。私曲のある庄屋はそれ程多くはなかった筈である。
  写真(右)【国東町の岩屋、松木家墓域にある
 「松木清孝」(相馬太夫)の墓】
地図
 一揆の前年の慶應元年(1865年)の惣代年番職・林来輔と相馬太夫及び磯矢匡は父方の従兄弟の関係であり、岩屋村正小山田氏の妻・屋於子は来輔の実妹である。林来輔が慶應二年も惣代年番を重任していたかどうかは分からないが、本当に庄屋が百姓の恨みの対象ならば、杵築藩の庄屋の代表を重任した林家が一番に一揆の打ち壊しに遭う筈であるが、一揆の被害は一切無かった。しかし林家の口伝で、万一の場合に備え当主の来輔は屋敷に残り、女・子供達は屋敷の向かい側の片平山に避難させたそうである。
d0069627_1691080.jpg写真(左)【綾部敦 著『自由の彼方へ』表紙 …… 慶應2年におきた、国東の農民一揆を主題にした歴史小説。2002年1月、文芸社 発行。】
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# by f-hayashi | 2006-06-10 16:12 | 林家の歴史
2006年 06月 10日

25 一揆の加担者か――その後の相馬太夫

    【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(4)】
 重光家史の中で、重光直愿(なおまさ・チョクゲン・林来輔は父の魚彝の末弟であるから叔父に当たる)は一揆の後、農民代表百余人と杵築藩が横手で会合した時、年少であったが記録役を勤めたと書き残している。首謀者を出した赤松村・横手村・岩屋村の庄屋は職を解かれた。重光宗家二十三代・景行(立平)は隠居して、山口村庄屋職は長男の直幹(大策)に譲っていたが、公命により赤松村に住み、赤松・岩屋両村の庄屋を兼務した。
 重光景行は重光魚彝(うおつね・ギョイ)の弟であり、林来輔の兄である。一揆に加担した従弟の松木相馬太夫の監視役でもあった。赤松から馬に乗って松木家に来ると、座敷牢に入っている筈の相馬太夫がいないことが度々であったとのことである。相馬太夫は小柄ではあるが、大変な美男子であった。座敷牢を抜け出し仲の良い女性の所に行っていた。それも一人や二人位でなかったそうである。笑い話の様であるが、私の祖母・捷(日清戦争の戦捷記念の年に生まれたので、捷と名付ける。)に似た女性をみると、相馬太夫の子ではなかろうかと親族の人は思ったらしい。実際に杵築の造り酒屋の娘に子を産ませている。親は名家の人の子だからと大事に育てたとのことである。
d0069627_1841223.jpg 松木家屋敷跡と屋敷内に残る鳥居 国東町岩屋
 相馬太夫の父・丹波守清軽が後妻を貰い妹が生まれるが、後に清軽が死ぬと後妻と妹を追い出した。腹違いの妹は後に日出の大店の嫁となる。国東櫻八幡宮宮司職だけではなく多くの神社の宮司をしていたので、一年の内大半は岩屋村の家にいなかったそうである。神に仕えていたのか女の所にいたのか知る由も無いが、相馬太夫は自由奔放に生きたのである。しかし、家が提灯の火の不始末により焼け、多くの古い物が焼けてしまった。家を新築する為の木材は全て林家より山を越し運ぶ。
 重光葵・蔵兄弟は林家に唯一重光宗家の血が残っていたのを知らなかったのか、重光家と林家は松木家を先祖と敬えと言い、現在は逼塞していると語った松木家の原因をつくったのも相馬太夫であることには間違いない。相馬太夫は教育者の側面も持つ、寺小屋をして近隣の子に学問を教えている。年老いてからは「走り中風」になる。相馬太夫が急ぎ足で行った後に、かっての門弟達が戸板を持ち後ろに続いたそうである。一人息子の清敦に子が無かった為に、枕元で孫の捷が松木家の養女となることを承諾すると、目を大きく見開き亡くなったとのことである。現在、三十一名の門弟が建てた墓碑の下に眠っている。
 門弟の中に旧岩屋村庄屋小山田太湖がいる。太湖は林壮三郎・重光直愿・重光直幹その実弟荒木煥古・重光彦三郎等とは従兄弟の関係である。師の松木相馬太夫の従姉が太湖の母親であり、また松木家と小山田家は従来からの親族でもあった。後に太湖は豊崎村の初代村長を務めている。能筆家で、書家としても有名であった。
d0069627_16154999.jpg写真【前節と同じ松木家墓域から相馬太夫の祖母にあたる「大孺人小山田氏之墓」】
 慶應の百姓一揆の首謀者の岩屋村・栗林三代松の一族の者が四名・横手村旧庄屋の利行家の者が一名門弟として、相馬太夫の墓碑に名が彫り込まれている。杵築藩や庄屋に対しての不満も少しはあったと考えられるが、百姓の怒りは傲慢な郷町人をはじめ商人達にあったと考える。相馬太夫も身内を困らせる為に、一揆に参加する様な愚かな人物であったとは思えないのである。一揆の首謀者達は日頃世話になり、正直に商いをしている店は打ち壊しの対象からはずしている。庄屋家も同じであったと思う。小山田家・利行家・西田家も打ち壊されたとは聞いていない。村を治める側と農民との確執があった場合、たとえ時代が変わってもしこりが残り、寺小屋で机をならべて共に学ぼうとは考えなかったと私は思う。
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# by f-hayashi | 2006-06-10 16:05 | 林家の歴史
2006年 06月 09日

26 文政元年の百姓一揆

   【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(5)】
 文政元年(1818年)に起こった百姓一揆も謎が実に多い。首謀者を出した村の庄屋は職を解かれたと萱島本『杵築実録』に書かれているが、伴作・千蔵を出した中田村庄屋の中野家は庄屋職を取り上げられてはいない。後に、林来輔の娘(私の母はヒサと言っていたと教えてくれたが、中野家の墓碑に彫られた俗名は確か違っていた。両子村正林家二女と彫られていた。)が嫁している。首謀者は出していないにもかかわらず庄屋の職を解かれた家がある。小原手永狭間村庄屋、綾部家である。松木家系図に、松木清度の二女で石見守清宣の姉が「狭間村正綾部氏 文化亥十二月二十五日卒」と書かれている。子孫の綾部敦氏の案内で綾部家墓地に行くと、時の庄屋は綾部良右衛門とあり、その墓碑の左側に寄り添う様に女人墓があった。その墓碑に彫り込まれた命日が、松木家の系図に記された命日と完全に一致した。その子の代に庄屋職を取り上げられたことが判明したが、何の罪で職を解かれたかは多くの謎が残っている。
d0069627_15325465.jpg
 写真【狭間村の綾部家の墓域】 藩庁より庄屋職を改易となった時の庄屋、綾部常助(~安政3年没)の墓。地図

 文政の百姓一揆も杵築藩や庄屋による圧政に対する抗議の一揆ではない。従来からの郷町人や新興の商人の暴利を貪る横暴さに対する打ち壊し一揆である。杵築藩最初の一揆である両子手永のうち四ケ村の百姓が島原の松平家の領地である下沓掛に逃散した事件も、大庄屋・両子文平(姓は小串・三浦梅園の弟子の一人で、後に、郡奉行である梅園の長男の三浦主令とも親密な関係を持ち、「梅園玄語贅語刻料」募金の五人の発起人の一人である。)が私利を欲しい儘にしたことが原因となり起きた一揆であると、名指しこそ避けてはいるが、重光直愿は「重光家家史」のなかで書き残している。
 両子文平と家族は追放処分となった。文平は郷町人の今市の溝部家の出であり、来浦手永大庄屋・小串家及び分家の浜田屋とも親族関係にある。文平の不始末により、大庄屋は全て職を解かれ茶屋となったが、来浦の小串家は郷士として処遇されなかった。三つの百姓一揆の原因をつくったのは、郷町人及び邪まな新興商人であると結論付けてもよいと思う。また、文政の一揆に関しては故意に史実を隠そうとした形跡が読み取れる。
 各町史等も編集委員等が「我が田にのみ水を引くこと」を考え、真実がねじ曲げられる場合が多い。国東町史の中でも松木家のことは抹殺されていた。横手の朝山家に嫁いでいる叔母の輝代が、「兄・清之(当時、東京家庭裁判所に勤務)が岩屋に住んでいないことをよいことに、実家の松木家の歴史を抹殺し、櫻宮に関して桜木家・鎌田家の都合の良い様に書いている。」と朝山家の親戚の元国東町教育委員長の西田小一郎に猛烈に抗議をしてやっと「岩屋の筆子塚」の記事が載ったと言う次第であった。
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# by f-hayashi | 2006-06-09 15:40 | 林家の歴史
2006年 06月 09日

27 両子村の石高ならびに墓石や墓碑

   【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(6)】
 従五位下とか朝廷より官位を貰った大名は別格として、江戸期迄の本当の旧家は、分不相応な墓碑は建てなかった。自分の生前の業績など墓石に刻むのは大丈夫のすることではなく、自分に自信が無い匹夫のすることであった。農村でも、化政文化が花開いた文化文政期頃より墓石等石造物に彫り込むのが流行した様に感じる。商人達の台頭により、それ迄の日本人の奥ゆかしさ等々の美点が置き去りにされた。精神性の欠如が百姓一揆を引き起こす原因をつくり、また今日の町史や書籍のいいかげんさを生んだと思う。

写真【上からA 国東半島最大の宝塔・B 巨大な個人墓・C 杵築藩主の墓】
d0069627_1455137.jpg A  国東町堅来 字鳴(なき)の長木家墓地にある塔(いわゆる「国東塔」)は、総丈3.94mで元亨元年(1321)の銘がある(国指定重文)。その奥の板碑も巨大(高さ3.36m)かつ肉厚、翌元亨二年の作。東を上に描いた手書き地図

d0069627_14552528.jpg B 長木家墓地とは、別の谷すじとなるが、北へ約10キロほどの地点、国東のある中学校裏の竹林のなかの墓域。こちらも位牌型の個人墓であるが、「穂」の部分だけでも3メートル。ここに同時に紹介する杵築藩主の墓と比べても、高さと装飾性にかけては「勝るとも劣らない」威容!

d0069627_1455502.jpg C 杵築市役所の裏手(西南)徒歩5分の養徳寺には、第6代・第7代の杵築藩主が並んでまつられている。 養徳寺
(なお斜体字は写真の撮影者 岩見輝彦が追記)

 我が林家の歴代の当主は、自分の業績等を飾ったり書き残したりはしなかった。両子村邑長としての職責は十分に果たしてきたと思う。先祖が両子の地へ来る前の両子村村高は元祿十四年(1701年)の「元祿郷帳・内閣文庫所蔵」によれば、二百八十四石二斗となっている。林家が両子村を治めていた天保五年(1834年)の内閣文庫所蔵の「天保郷帳」によると、何と約三倍の八百五十一石一斗の村高となっている。恐らくこの村高は両子寺四十石等の寺社領御赦免及び庄屋四十石・山ノ口一軒及び弁差三軒の高引が除かれているから、合わせると千石の大村となったといえる。
 井手及び水路の建設整備をして農地を広げたと思う。国東半島は雨量が少ないが、半島で一番高い両子山の麓の両子村は割合水には困らなかったと思う。標高も高いので、高低差を利用して井手を作り山の中腹まで開墾して水を引いて田を増やしたと考えられる。
 しかし、それだけで村高が三倍に増えないと思う。元々の村高が過少申告されていたと考えられる。検地の時、竿の長さや土の重さを誤魔化して役を取り上げられた愚かな大庄屋や村庄屋がいるみたいだが、両子村の両秋吉家もその類いではなかったかと推理する。前に書いた様に、故・林武生氏が語ったのが、「オシャモトの先祖が両子の地へ来る前は秋吉家が庄屋をしていたが、何かがあって庄屋を辞めさせられた。秋吉家退役に関わったのが、鎌倉期より当地にいた我々林一族であった。後オシャモトの先祖にお願いして、林一族の宗家になってもらった。」武生氏は詳しいことを知らなかったのか、それとも理由を話せなかったのか、「何かがあって」とのみ私に話してくれた。
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# by f-hayashi | 2006-06-09 15:11 | 林家の歴史
2006年 06月 09日

28 両子に元々いた林一族――『國東半島史』から

    【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(7)】
 最後に、両子に元々いた林一族について考察する。河野清實氏の『国東半島史』より林一族の先祖と思われる人物を拾い出すと、天文三年(1534年)大内義隆の軍勢三千余人が豊後に侵攻した時、大神弥七郎鎭氏・林佐渡守両人手勢三百余騎を引具し鹿鳴越に控へ敵を待ちたりと『豊城世譜』にある。
 元亀元年(1570年)大友宗麟は肥前の龍造寺隆信の反逆を怒り七ヵ国の軍勢を出す、その兵十万余、北口の大将は大友八郎親貞、属する者は吉弘内蔵助・林式部大輔・林中務大輔等々。鍋嶋信昌らにより大友親貞・吉弘内蔵助・林式部大輔・林中務大輔以下討死するもの一千余人に及ぶと『歴代鎮西要略』『軍記略』『豊府紀聞』にある。
 天正七年(1579年)宇佐宮の彌勒寺の領米並びに領地四十町、寺務時枝の居屋敷等悉く奈多鑑基押領して林式部少輔の給地たらしめ、其被官糸永越中守に引渡したりと『到津家系譜並事蹟書』にある。
 天正十五年(1587年)の大友宗麟の総参謀として豊前探題たる田原紹忍(親賢・武蔵今市城主・豊前妙見嶽城主・宗麟の義兄弟)の旗本九十九名の中に、林民部少輔・林治部少輔・林勘助の名が見える。
 文祿元年(1592年)三月・大友義統朝鮮征伐の役に従軍す、四月二十日七つ時に上陸す、手勢六千余騎、其内主なるもの百十六騎のなかに林九左衛門の名がある。
 以上の人物の名が歴史書に出ている。たまたま姓が同じだからとこじつけたのでは無い、林武生氏は「内無常の追加の一軒は、林一族が文祿・慶長の役で捕虜として連れ帰った子孫の隠居家であると古い人から聞いている。染物の技術があり、その家を紺屋と最近迄呼んでいた。」と私に話して聞かせた。それと十数年前ある酒の席で、武蔵の吉広の加藤氏より「滝口さんは両子の御庄屋さんの出ですね。」と聞かれたので、生返事をしたら、本家より貴方の家のことはよく聞いている。「我々加藤家は吉弘氏の家臣であったが、両子の林家は我々の主家の吉弘家と同格であった。主家の墓を守ってきたが、或る時側の御堂を崩したら、林の名が書かれた板が出てきた。調べてもらったところ吉弘家と同格と分かった。」と述べた。
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写真【河野清實『國東半嶋史』扉と神服姿の著者】
河野清實先生遺徳顕彰会による昭和48年4月の合本再版(初版は上巻が昭和3年、下巻が同7年、上下合本は昭和10年刊)。顔写真は昭和28年3月没の翌年に刊行の『朝来村郷土史』183頁から。
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# by f-hayashi | 2006-06-09 14:51 | 林家の歴史
2006年 06月 08日

29 岡山県の林さん――林家のルーツ探し

      【両子林家の歴史…… 三 書き足しの章(8)】
 二十数年前に梅園のことで中尾彌三郎氏が我が家に来たことがある。その約一年後の或日、父に両子寺の寺田豪延住職(昨平成17年11月に示寂)より、林家のル-ツを探している人がいるのでお宅を紹介したのでよろしくとの話があった。数日後、六十歳前後の女性が我が家を訪ねて来た。その女性は岡山県に住んでいて林と名乗った。「私の先祖は安岐城主熊谷氏に仕え、黒田如水(孝高)軍と戦ったが城が落ち岡山迄落ち延びた。その後岡山で数か村を束ねる大庄屋となった。先祖は口伝と文書で安岐の出身である。」と話した。父母と私にその古文書を見せてくれた。父も母も我が家の歴史を話し、両子の林一族の主筋の女の血は入っているが、あくまでも男系は両子の人ではないと説明して、徳代にはまだ十軒ばかりの林姓があるので隣近所を訪ねて話を聞いてみたらと話すと、その女性は気落ちした表情になった。私が中尾彌三郎氏から聞いた浦下原の庄屋の林家の話をすると、先祖はその家と関係があるかもしれないと言うので、その場で中尾氏に電話して翌日その女性と一緒に訪問したいがと話すと中尾町長は快く引き受けてくれた。
 町長の自宅を訪問して話を聞くが、その家の子孫は現在はこの地にはいないと述べた。その女性はショックを受けたみたいであった。町長の自宅を後にして、安岐城址を案内した。その女性は「私は夫に先立たれ二人の男の子を一所懸命に育て大学迄出した。今は二人に私が築いた数店舗のス-パ-を任せ、時間の余裕が出来たので、先祖の地を訪ね林家のル-ツを探そうと思ったが残念です。しかし、私は貴方のお父様と同じ血が流れていると思い岡山へ帰ります。」と言って別れた。
 林一族は他家に仕官した者もいたであろう。岡山の林さんの先祖の様な生き方をして、他の土地に移り住んだ者もいたと思う。本貫地に残り農に帰した人々が、我が家の先祖を心よく迎えた。かっては威張っていた一族も他所から来て、自分らの上に立った秋吉家を苦々しく思いながらも、百年以上もの月日を耐え忍んできたと思う。

d0069627_1603488.jpg写真【安岐城址の碑】場所 大分県国東市安岐町下原(しもばる) 字古城(ふるしろ) 地図……大分空港から車で約3分の場所
碑の正面に「安岐城碑」と大書。左側面に漢文で来歴を記し、裏面に次の撰年と撰者名で結ぶ。
 明治三十八年乙巳十月一日
      舊杵築藩士荒木公干撰并書
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# by f-hayashi | 2006-06-08 16:06 | 林家の歴史
2006年 06月 08日

30 名家だらけの東国東――出自の詐称

      【両子林家の歴史…… 三 書き足しの章(9)】
d0069627_18563433.jpg 長々と下手な文章で書いたが、いつかは我が家の歴史を書き残そうと思っていた。父の理が富永村の旧庄屋の子孫である義理の伯父・三浦壮(さかん)に三浦家の歴史を書いてもらう様にお願いしたことがある。壮は書き残す前に亡くなってしまい、本当の三浦家の歴史を知る人がいない結果となった。 安岐町・富永の三浦 壮 氏とその家族……昭和22年前後か
 私も過去色々な我が家についての話を耳にした。本林兵介藤直が歳神社に奉納した一双の灯籠を関係ない別家の林家の人が何の根拠もなしに「この人が我が家の先祖です。」と言ったり。「我が家が昔庄屋をしてました。」と外で話したり。甚だしいのは、庄屋の林家は杵築の方から来たとか、入庄屋の制度上の意味も知らずに、あの家は入庄屋であると言ったり。重光葵が外務大臣や改進党総裁になり偉くなったので、或別家の林の結婚式で当家は重光家の親族でと騙りをしたりと枚挙に暇がない。そんなことを言う人間にかぎって、自分の曽祖父母の名前及び出自すら分からず、ましてやその前のことなど皆目知らない。一番始末に困る人は旧家の墓を自分の先祖であると人に言ったりする。昨今金が貯まり、少しばかりの肩書きが出来たからといって系図を捏造して家柄詐称に走る傾向が実に多い。学歴詐称は問題になるが、家柄詐称はほとんどの人が問題視しない。出自の詐称をする人は自分の先祖に誇りが持てず、自分自身の基盤が揺らいでいるから、家柄詐称等をして上辺の誇りを持とうと考えるのであろう。先祖がたとえ水呑百姓であろうと名子・譜代であろうと、懸命に生きてきたからこそ自分が存在するのである。たとえ出自がそうであったとしても貴賤で先祖を選ぶべきではないと思う。そんな考えを持つことは、先祖を馬鹿にして自分自身をも否定することにつながると私は思う。
 私の母は「東国東ほど家柄を言う土地は無い。皆自分の家は名家だと言い、他の家を馬鹿にする人が多い。ありえないことだが名家だらけである。」と昔からよく話した。そんなこともあり、いつかは林家の口伝等を書き残す必要があると思っていた。
 そんな矢先、私は綾部敦氏と知り合い、彼の紹介で三浦梅園研究家の岩見輝彦先生(早稲田大学文学博士・三浦梅園資料館勤務)との出会いにより、「村の庄屋さん」等に関する勉強会が始められた。それに刺激され、「両子林家の歴史」を書こうと思った次第である。
 最後に、私は赤穂義士と林姓は相性が非常に良いのではなかろうかと考える。幕府の儒官であった林大學頭信篤も浪士達に好意的であったし、一時期大三郎を養子にしたのが丹後の国須田村の眼科医・林文左衛門であった。今日迄四十七士か四十六士かで論争を巻き起こしてきた寺坂吉右衛門の各地に残る伝説に絡み、顔を覗かせる上方の戯作者「都の錦」も林忠助・宍戸光風・宍戸鉄舟等の名を持っている。「都の錦」は林忠助名で『武家不断枕』を書き残している。
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-完-
写真【墓碑を撮影する岩見 輝彦 氏】
……同氏は両子村から南へ7キロの集落、富清から糸永地区にかけての習俗の報告をしている。年に数度の神社祭礼日に持ち出し掲げられるノボリ旗の報告である。 岩見家の親孝行
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# by f-hayashi | 2006-06-08 15:27 | 林家の歴史