両子の林家

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2006年 06月 01日

追記(「両子林家の歴史」最終回)

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写真 
大分県の東北部、国東半島の中央やや南、両子(ふたご)村の歳(とし)神社で石灯篭に刻された家紋を確認するブログの著者

― 追記 ―

 「両子林家の歴史」を書き終えたところ、綾部敦氏(国東市議会議員・狭間村元庄屋の子孫)から現在彼が執筆中の「綾部家の歴史」のなかで林家に関する文をもらったので、以下記す。尚、前章までに書いた様に、先祖から父・理までの口伝であり、林家の先祖を林一族の宗家になってもらった別家の林一統の先祖達もそのことは知らなかった筈である。故・林武生氏も「母と男の子」と話し、幼な子と母であったので、両子山内(サンナイ)の百姓家の人に大変世話になったと述べた。恐らく当時の人達は「止ん事無い人の遺児」としか教えられてなかったと思う。

 次が、綾部敦氏が私にくれた「両子村庄屋、林家について」の文である。その文を忠実に許可を得て書き写した。綾部敦氏とは知り合って四・五年になる。彼の叔父である旧成吉村庄屋の子孫の厚田祐治郎氏とは、以上に載せる「林家の歴史」に書いた様な関係があったので、随分前から付き合いがあった。最初は祐治郎氏の甥であるとは知らなかった。私は古い事が好きであり、綾部氏もまた同じであるから付き合いが始まった様な次第であった。或る日彼の口から林家の先祖の話を聞いた時は大変驚いた。林家代々他言していない口伝をどうして彼が知っているのかと考えた。私には分かるが林家歴代の人々は決して外部に「我が先祖は赤穂浪士の関係者であり、大石家縁の者の子孫である。」とは言っていない。あくまでも代々密かに語り継がれたのである。連坐という呪縛ではない、連坐からはもうすでに宝永六年(1709年)解き放たれている。
                                    
( 2006年 6月1日 両子山への中腹にある三浦梅園資料館にて)
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# by f-hayashi | 2006-06-01 15:33 | 林家の歴史
2006年 06月 01日

綾部敦氏が先祖から聞いた「両子村庄屋、林家」

両子村庄屋、林家について

                        綾部 敦
 写真(左下) 綾部家の口伝を、敦氏(国東市議・写真の人物)に
     伝えた父、綾部省吾(戒名「源光院省岳善道居士」)の墓。

両子山麓の林家に庄屋がある。同じ姓は十数軒ありますが、庄屋をしていた林家は二段構えの立派な石垣が残っています。祖父一雄はこのように申しておりました。
d0069627_15521915.jpg一雄の義理の祖父であった、清右衛門清八は両子村の隣村小俣村、森家の出で、森家は両子寺の門徒でした。清八の生前、森家の逼塞によって綾部家を頼ってきていた清八の兄一家も狭間で死亡しました。清八没後も綾部家は森家の菩提を弔う為に、両子寺に参っていました。両子寺の山門に清八の名が刻まれているのはその所以です。
祖父が両子寺に参るとき林家の話を父にしたそうです。
父の兄であった盤根が林家の娘との縁談話があったときの事をつまびらかに聞いています。林家は元々は赤穂の侍で故あってこの地に来て庄屋となりました。家筋ともに立派な家系であるので綾部家にとって申し分はなにもありませんでしたが、ただひとつ聞くところによればその娘は体が弱いと聞き、また盤根も生来、体が弱かったためその縁は流れたそうでした。綾部家の代々の言い伝えであり、元禄の頃以降、仁左衛門、元右衛門、清右衛門と話が語り継がれました。しかし他家には絶対に言ってはならないと申しておりました。
それはいくら赤穂義士の関係の侍とはいえ、幕府の定めに逆らった家系ゆえ、林家の名誉に関わる故に絶対他人には話してはならないと念を押していました。
赤穂義士のいづれの子孫であったのか、祖父は申しませんでしたが、父曰く、林とあるので武林唯七ではあるまいかと、推論をたてていました。

仁左衛門の父は清右衛門といい杵築藩の儒者となった綾部道弘の兄であって、その子の綾部進平(号は 絅齋[けいさい])は郡奉行となり杵築公に仕えました。仁左衛門と進平は従兄弟の関係にあり、
杵築の文献には進平は杵築公に従い、江戸に赴いている。
当時の赤穂浪士の事件については、進平は耳にしていたと思われます。

後、進平は藩郡奉行となり、手永の庄屋宅を訪れました。
狭間村の庄屋は当時、綾部仁左衛門がしておりました。従兄弟という関係から赤穂義士の内緒話が出てそれがそのまま語り継がれたようです。

母、小夜子の実家は成吉村の庄屋でした。昭和の初期頃のことです。母の実家、厚田家と同村の島屋、川島家は近い親族でした。川島トヨ、タズ、そして秀雄がおりました。
島屋は厚田家が当地に来るまでの庄屋でした。
成吉村の禅寺、円明寺は川島広石師が建立しました。昔ながらの名家でした。藩政時代は醸造業をしていましたので屋号を島屋と言っていました。
先に申しました、昭和の初期頃、両子より林家の当主であった林暢(トオル)氏が馬に乗って島屋にやってきました。島屋と林家、そして厚田家は親族であって母が子供の頃には、このトオル氏が来ると、こぞって島屋に出会いにいったそうです。
後々、この話を母が私の父にする時、父は赤穂の侍が馬に乗ってきたのか、、、と言ったそうです。母の話ではとても品のいい人だったそうです。
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  ( 2005年 8月 遺蹟調査で転倒し骨折したあとの入院生活中に執筆)
 写真 このブログの著者と鳥居を調べる綾部 敦 氏(国東市議)
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# by f-hayashi | 2006-06-01 15:21