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両子の林家

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2006年 06月 11日

16 わが母・三千代

                【壱 両子林家歴代の章】
 ↓ 松木 哲之         
16 わが母・三千代_d0069627_17144343.jpg 私の母方の祖父・哲之が八幡製鉄所に勤めていた関係で、母の三千代は小倉生まれの小倉育ちである。祖母の捷は林壮三郎の実弟・林恒策の二女であるから暢の従妹となる。捷の父・恒策は師範学校を出て教師となる。最初の妻は秋元氏より娶り娘・ツヤを残して亡くなり、二番目の妻が神職の松木清敦の姉・トシであり、捷を産んで亡くなる。三番目に来浦の旧庄屋で医師の宮崎氏の女を娶り美久が生まれる。16 わが母・三千代_d0069627_17153383.jpg三姉妹は皆母親が違うのである。松木清敦と旧真玉大庄屋野村家の分家で代々医家の娘・リツとの間に子が無かったので、清敦の姪・捷を養女にして、リツの甥・野村哲之を養嗣子とする。哲之と捷の間に長男の清之・長女の三千代その下に妹が三人いる。
 三千代は小倉高等女学校を出て、三菱銀行小倉支店に入行し、次に戸畑支店に移る。哲之は終戦とともに国東に帰るが、三千代は三女の之江が女学校を卒業するまで小倉にとどまり、後に国東に帰る。理と結婚して慣れない農業をする事となる。
16 わが母・三千代_d0069627_17768.jpg 写真 ←三千代と林 理 ・ 林 恒策(ガラス板)
 暢も三千代を理の妻にむかえた事は嬉しかったと思える。秋になると山に行き、栗を拾ってきて「ミチイドンこれを食え」とすすめたそうである。しかし、三千代は暢に「お父さん、ミチイドンとは何事ですか三千代と言って下さい。こんな虫栗は食べられません」と言ったそうである。若い時から威張っていて周りが皆気を使っていたが、暢は以外と歯に衣着せぬ人を好んだと思う。長男の祐輔が産まれると大層喜び、近所の人に「ボンチができた」と言って廻ったそうである。一代自由気ままに生きた人ではあるが、家の歴史を考え林家の男子誕生を誰よりも喜び程なくして亡くなる。
 父と母の教育方針は違っていた。父は脇目も振らず勉強せよと言ったが、母は松江藩主の松平不昧公(治郷)の教えに感銘しており、或る程度の脇目も必要な事であると言った。父も母も子供には体に資本をつけると言い、自分達を犠牲にして三兄弟の教育をした。しかし、我々兄弟は万分の一も親の期待に応えることが出来なかった。林家の歴史で母と男の子が凡そ三百年前に両子の地へ来て住み、代々金銭面の苦労は無く暮らしてきて、運の悪さが悲しい事に父と母の代に集中して苦労の連続であった。
 長々と林家の歴史を書いたが、まだ色んな話が伝えられている。先祖代々林家当主は両子寺の無明橋を下馬することなく騎馬で渡ることを許されていたとか、おツルとヤゴサの下男下女の笑い話や、夜屋敷を抜け出し朝帰りをする下男の話等々あるが割愛する。↓理と三千代の婚礼写真(昭和21年)16 わが母・三千代_d0069627_17215873.jpg

 以上、「壱 両子林家歴代の章」として、両親の代までの伝聞を述べた。次からは5節(仁・義・礼・智・信)に分けて、ここ豊後までたどりついたという、赤穂浪士ゆかりの者という先祖からの言い伝えを再考してみたい。



   弐 赤穂浪士ゆかりの章

# by f-hayashi | 2006-06-11 19:09 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

17 史実――大石内蔵助と可留の児

写真 字 徳代 地図 からのぞむ両子山
17 史実――大石内蔵助と可留の児_d0069627_17454022.jpg
    【両子林家の歴史…… 弐 赤穂浪士ゆかりの章(仁)
 ここから、あらためて宝永頃両子の地に来た母と男の子及び大石家縁の者との口伝から林家先祖を推理すると、大石内蔵助と可留との間に生まれた男の子が母の可留と共に何かの伝てを頼り両子の地に来て住んだと私は考えてみた。
 可留(お軽・阿軽・おかぢ・おかや・と色々な名前の説があるが、一応可留とする。) 生家は一文字屋とか二文字屋とか出版業を営んでいたとも、古道具屋をしていたともいわれており、京都島原中ノ町の娼家の女だったという説もある。京都紫野の瑞光院の過去帳に「清誉貞林法尼・正徳三年癸巳(1713年)十月六日年二十九往生・二条京都坊二文字屋可留・久右衛門妾也」としるされており、墓は下京の上善寺にあるとのことであるが、はたして本当にそこに可留が眠っているのであろうか。
 赤穂義士研究の第一人者であった三田村鳶魚は「本当の義士の関係者の子孫は人知れずひっそりと暮らしており、義士の関係者とか子孫であると声高らかに言っている人達は実に騙りが多い。」と述べている。かの俗書で有名な「祇園可音(金)物語」の内蔵助の娘を騙る清円尼(滝沢馬琴も「玄同放言」にしるしている。)、堀部弥兵衛の娘を騙った妙海尼(堀部安兵衛武庸の妻を騙る)等々である。討ち入りで赤穂浪士が有名になればなるほど関係者の子孫であると騙り、それに乗っかろうとするのが日本の庶民の考えである。武士(もののふ)の血が流れている人は決してそんなことを言わないと三田村鳶魚は言っているのであると思う。
 義士の討入りを再就職運動であると書いた義士研究家もいるが、明治以降ましてや戦後の視点で江戸期迄の誠の武士の心を推し量るからそこに無理が生じるのである。討ち入り後四十六年目の寛延元年(1748年)八月に竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作による人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が大坂の竹本座で上演され、また歌舞伎や講談により史実と違ったりかけ離れたりして虚構が一人歩きした事柄が多い。
 可留は京都二条寺町の二文字屋次郎左衛門の庶子であったというのが真実であろう。元祿十五年(1702年)四月十五日・大石内蔵助は嫡子主税を残して妻子を離別、但馬豊岡京極家の家老である岳父石束源五兵衛毎公のもとへ返している。山科の屋敷には内蔵助と嫡男主税が残った為に大石家親族の旧赤穂浅野家家臣の進藤源四郎・小山源五右衛門が身の回りの世話をさせる為に、京美人の評判が高かった町家の娘・可留に小間使兼側女としてはいらせた。当時可留は十八歳・内蔵助は四十四歳・主税は十五歳であった。
 可留が内蔵助のもとで暮らしたのは、わずか半年たらずであった。大石内蔵助等はその年(元祿十五年・1702年)閏八月一日・山科から京都四条河原町金蓮寺塔頭梅林庵に仮寓する。同九月に大石主税は間瀬久太夫・大石瀬左衛門らと京を出発して、九月二十四日に江戸に着いている。同十月七日・大石内蔵助は潮田又之丞・近松勘六らと江戸に向かって京都を発つ。三条大橋まで見送った可留はその時既に内蔵助の子を宿していたという。
17 史実――大石内蔵助と可留の児_d0069627_17462726.jpg 十一月二十五日付で大西坊証讃に送った手紙で、旧浅野家御典医の寺井玄渓や内蔵助の養子の大西坊覚運(内蔵助の叔父・小山源五右衛門の子であり、内蔵助の従弟である)に生まれ出る子の将来を頼んでいる。17 史実――大石内蔵助と可留の児_d0069627_17315782.jpg「玄渓へ頼候二条出産之事も、出生申し候わば、金銀遣し、いずかたへなりとも、玄渓遣し申すべく………」と書きはじめ、男の子なら陰間、女の子なら私娼になっても仕方ないが、そのことが心にかかり、これからの志の邪魔になると述べ、後事を託している。二文字屋に帰っても居り場の無い身重の可留のことが非常に気掛かりであったと思われる。 写真 林家の石垣と明治期に建てた母屋

# by f-hayashi | 2006-06-11 17:50 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

18 私考――大石主税と可留の子か

   【両子林家の歴史……弐 赤穂浪士ゆかりの章(義)
 史実は大石内蔵助と可留の子となっているが、私は主税と可留との間の子と思う。こんな事さえなければ、主税は内蔵助の後に赤穂浅野家・千五百石取の国家老の家を継ぐ身であった。そのことを不憫に思い、討ち入りが成功しても失敗してもそこには死しか無く、子を持つ男親として、是非も無きことではあるが、十五歳で死ぬであろう嫡男・主税のことを考えるとやりきれない思いに苛まれたと思う。ここで主税の血を絶つことを忍びず、可留に言い含め主税の子を宿させたと思う。虚構に惑わされた人や熱狂的な赤穂義士信奉者は、馬鹿な事を言う者もいるものだと思い、あくまでも主税は十六歳で汚れも知らず死んでいったと考えるであろう。討ち入り直前の十二月十二日付の小野寺十内が妻の丹に送った書状のなかに、主税の一首「あふ時はかたりつくすとおもへども わかれとなればのこる言の葉」が記されていた。主税は元祿十六年二月四日・伊予松山城主松平隠岐守の江戸屋敷で切腹・行年十六・介錯人は波賀清太夫であった。
18 私考――大石主税と可留の子か_d0069627_1814727.jpg← 写真 林家 築山の屋敷荒神と雪見燈籠
 大石内蔵助と妻・りくとの間に長男の松之丞(元服して大石主税良金)・長女くう・次男吉千代・次女るりがいる。りくと主税を除く子供たちを石束家に帰すが、その時りくは身重の身であった。内蔵助は終に見ることが出来なかったが、石束家で産まれ大三郎(代三郎)と名付けられる。長女くう(久宇)は十五歳で早世した。次男吉千代はのちに吉之進と名乗り、連坐を逃れる為に但馬で仏門に入り祖錬元快と名乗る。宝永六年(1709年)に十九歳で亡くなったとも実は生きていたとも言われている。次女・るりは後に広島の浅野家家臣の千石取りの浅野長十郎之信に嫁している。三男の大三郎は丹後の国宮津領熊野郡寸(須)田村に住む眼科医・林文左衛門の養子とするが、大赦後の正徳三年(1713年)大三郎は十二歳の時、浅野家本家である浅野安芸守吉長に千五百石で召し抱えられ、母のりくと共に広島へ移り住む。尚、丹後の宮津にいた時の領主は奥平公であり、後に享保二年(1717年)奥平昌成公が宮津より豊前中津十万石に転封となった。
 仏門に入った次男の吉之進が亡くなったとされる宝永六年(1709年)は、五代将軍綱吉薨去による大赦が行われた年であり、また可留が亡くなったとされる正徳三年(1713年)は大三郎が浅野安芸守吉長に召し抱えられた年でもある。瑞光院の過去帳に久右衛門妾可留と書かれているとのことであるが、京都の瑞光院は江戸の泉岳寺・赤穂の花岳寺及び高野山悉地院と並び赤穂浅野家とは縁の深い寺である。宝永六年と正徳三年は謎に包まれた年であると私は思う。久右衛門とは池田久右衛門という内蔵助の変名であり、母クマの生家である備前岡山池田家の家老池田出羽守由成の姓をとり、池田久右衛門と名乗ったのである。
 林(本林)家先祖が大石家縁の者と騙り、家紋を右二ツ巴にしたりして家の格を上げることに汲々としたのであろうか、どうも私はそうとは思えないのである。18 私考――大石主税と可留の子か_d0069627_17242281.jpg
   写真
両子の歳神社に奉納された石灯籠。「神燈」とある右側面に奉納者の「本林兵介藤直」、左側面に「寶暦丁丑林鐘」と刻される。「林鐘」は6月の別称で、丁丑は宝暦七年(1757)。

# by f-hayashi | 2006-06-11 17:35 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

19 本林兵介とその母

   【両子林家の歴史……弐 赤穂浪士ゆかりの章(礼)
19 本林兵介とその母_d0069627_1875964.jpg 初代本林権四郎は大石家の縁者か、もしくは赤穂浅野家家中の者であったと考え、本林兵介藤直(戒名・石翁淨閑居士)が可留の子であり、可留が兵介藤直の母(墓の戒名・蓮月妙貞大姉・兵介藤直の位牌には石翁淨閑居士と圓月智貞大姉と並んで書かれている)であると私は思う。19 本林兵介とその母_d0069627_1882571.jpg恐らく本林権四郎は兵介藤直とその母が両子の地に来る少し前に、当地に移り住んでいたと考えられる。その権四郎をたより、母と子が宝永もしくは正徳の頃に山越しして両子谷へ入ったと考えられる。可留は元祿十六年(1703年)に子を産んでいる。もし大赦が行われた宝永六年(1709年)に当地へ来たと仮定すると、子は数えの七歳である。林(本林)家及び一統の口伝に一致する。
 写真 左上は兵介と母の戒名、右は権四郎の戒名を記した位牌。
 本林兵介藤直は後に豊前中津領主奥平公より召され仕官する様に言われたが、固辞し帰農する道を選ぶのはなぜだろうか。また松平公より側室にくれとの話を命をかけて拒否するのはなぜだろうか、お供の重臣が田舎の一庄屋の肩を持ち、お殿様を諫めたのはなぜだろうか。側室問題は兵介藤直か三郎兵衛藤美(左介)の娘と考えられるが、先祖は松平公に「林(本林)家の娘は、たとえ御殿様であろうと妾奉公はさせません。」と言い切ったとのことである。そのことに御殿様が怒り、その殿様を重臣が諫めたと伝わっている。
19 本林兵介とその母_d0069627_1755629.jpg 子供の時は、父母にどうして奥平の殿様に仕えなかったのか、田舎の庄屋より侍の方がよかったのにと質問した。また側室の件では、「学校で先生から聞いたが、或偉い先生の孫娘もどこかの殿様の妾になっているよ。」と父母に話すと、父は黙って聞いていたが、母は「そのことは知らなかったが、まあ何とその家は下品なのか、林の先祖の方が立派だよ。」と直ぐに答えてくれた。 写真 中津城
 思うに仕官の固辞及び側室の要求への拒否は、私達の先祖である「母と男の子」の歴史に起因していると思う。主家の為・家の為・名誉の為・忠義の為等々を重んじ、平気で人を斬り、また自ら腹を切る様な武士の世界を嫌い、又それらのことにより、多くの女・子供達が蔭で苦しみ嘆く様なことを二度と味わいたくないとの思いがそうさせたと思う。農に帰すことにより、家の繁栄や栄達よりも安穏な生活の道を選んだと思われる。

# by f-hayashi | 2006-06-11 17:08 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

20 藩主への側室拒否や両子寺との関係

   【両子林家の歴史……弐 赤穂浪士ゆかりの章(智)
写真20 藩主への側室拒否や両子寺との関係_d0069627_18522665.jpg 片平山の全景(庄屋の林家からは両子川を越え南西)
 過去、林(本林)家は庄屋職を剥奪されるような事を三度している。一つは領主である松平侯へ側室の拒否をしたことである。二つ目は先祖に睨まれて両子寺の坊主が首を吊って自殺したことである。三つ目は前章の「6 林家と重光家」に書いた様に五代・八平宗芝は庄屋の仕事を一切しなかったことである。しかし不思議なことに、絶えることなく明治五年(1872年)太政官布告による庄屋制度廃止まで両子村邑長を世襲している。
 六郷満山中山本寺の足曳山両子寺は能見松平氏(ノミマツダイラ・先祖は三河の能見村の出である。)入封により、大友時代は吉弘氏が住していた関係もあり、六郷山の惣山は都甲荘屋山の長安寺であったが、両子寺が松平侯より寺領四十石・境内免許地高七石一斗四升を安堵され、松平家の最高祈願所となった。本山住職は叡山延暦寺より代々来て住職を勤めている。本寺以外に中之坊をはじめ凡そ十ばかりの坊を有していた。林(本林)家代々両子寺檀家惣代を勤め、普通は無明橋の前で下馬する仕来たりであったが、下馬すること無く騎馬で寺に入ることを許されていた。
20 藩主への側室拒否や両子寺との関係_d0069627_18533558.jpg 林家口伝の坊主の自殺は、本山住職に仕えていた坊主とのことである。先祖がその坊主が家柄が低いと馬鹿にして棒で叩いたと伝えられている。そのことを苦にして自殺したらしい。それ以後林家に次々によからぬことがおき、先祖はその坊主を供養するために、屋敷の南側に位置する片平山に何かを祭った。父・理が晩年に母と私に、子供の頃壮三郎が紋付を着て、自分を連れてお参りをした記憶があると話した。
 数年前に両子で山林の国土調査があり、その時母と私は片平山にわけ入りその石造物を捜すと、御地蔵様が存在していた。片平山にはそれ以外に林家の二基の祠があり、壮三郎は毎日欠かさずに屋敷から片平山に向かってお参りしていたと伝えられている。20 藩主への側室拒否や両子寺との関係_d0069627_18535642.jpg 

写真 上 …… 両子寺の某僧を供養するために林家がたてた地蔵

写真 左 …… 片平山の中腹にある2基の祠(手前は今宮大明神)


# by f-hayashi | 2006-06-11 17:04 | 林家の歴史