両子の林家

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2006年 06月 09日

28 両子に元々いた林一族――『國東半島史』から

    【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(7)】
 最後に、両子に元々いた林一族について考察する。河野清實氏の『国東半島史』より林一族の先祖と思われる人物を拾い出すと、天文三年(1534年)大内義隆の軍勢三千余人が豊後に侵攻した時、大神弥七郎鎭氏・林佐渡守両人手勢三百余騎を引具し鹿鳴越に控へ敵を待ちたりと『豊城世譜』にある。
 元亀元年(1570年)大友宗麟は肥前の龍造寺隆信の反逆を怒り七ヵ国の軍勢を出す、その兵十万余、北口の大将は大友八郎親貞、属する者は吉弘内蔵助・林式部大輔・林中務大輔等々。鍋嶋信昌らにより大友親貞・吉弘内蔵助・林式部大輔・林中務大輔以下討死するもの一千余人に及ぶと『歴代鎮西要略』『軍記略』『豊府紀聞』にある。
 天正七年(1579年)宇佐宮の彌勒寺の領米並びに領地四十町、寺務時枝の居屋敷等悉く奈多鑑基押領して林式部少輔の給地たらしめ、其被官糸永越中守に引渡したりと『到津家系譜並事蹟書』にある。
 天正十五年(1587年)の大友宗麟の総参謀として豊前探題たる田原紹忍(親賢・武蔵今市城主・豊前妙見嶽城主・宗麟の義兄弟)の旗本九十九名の中に、林民部少輔・林治部少輔・林勘助の名が見える。
 文祿元年(1592年)三月・大友義統朝鮮征伐の役に従軍す、四月二十日七つ時に上陸す、手勢六千余騎、其内主なるもの百十六騎のなかに林九左衛門の名がある。
 以上の人物の名が歴史書に出ている。たまたま姓が同じだからとこじつけたのでは無い、林武生氏は「内無常の追加の一軒は、林一族が文祿・慶長の役で捕虜として連れ帰った子孫の隠居家であると古い人から聞いている。染物の技術があり、その家を紺屋と最近迄呼んでいた。」と私に話して聞かせた。それと十数年前ある酒の席で、武蔵の吉広の加藤氏より「滝口さんは両子の御庄屋さんの出ですね。」と聞かれたので、生返事をしたら、本家より貴方の家のことはよく聞いている。「我々加藤家は吉弘氏の家臣であったが、両子の林家は我々の主家の吉弘家と同格であった。主家の墓を守ってきたが、或る時側の御堂を崩したら、林の名が書かれた板が出てきた。調べてもらったところ吉弘家と同格と分かった。」と述べた。
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写真【河野清實『國東半嶋史』扉と神服姿の著者】
河野清實先生遺徳顕彰会による昭和48年4月の合本再版(初版は上巻が昭和3年、下巻が同7年、上下合本は昭和10年刊)。顔写真は昭和28年3月没の翌年に刊行の『朝来村郷土史』183頁から。
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by f-hayashi | 2006-06-09 14:51 | 林家の歴史


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