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両子の林家

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2006年 06月 09日

26 文政元年の百姓一揆

   【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(5)】
 文政元年(1818年)に起こった百姓一揆も謎が実に多い。首謀者を出した村の庄屋は職を解かれたと萱島本『杵築実録』に書かれているが、伴作・千蔵を出した中田村庄屋の中野家は庄屋職を取り上げられてはいない。後に、林来輔の娘(私の母はヒサと言っていたと教えてくれたが、中野家の墓碑に彫られた俗名は確か違っていた。両子村正林家二女と彫られていた。)が嫁している。首謀者は出していないにもかかわらず庄屋の職を解かれた家がある。小原手永狭間村庄屋、綾部家である。松木家系図に、松木清度の二女で石見守清宣の姉が「狭間村正綾部氏 文化亥十二月二十五日卒」と書かれている。子孫の綾部敦氏の案内で綾部家墓地に行くと、時の庄屋は綾部良右衛門とあり、その墓碑の左側に寄り添う様に女人墓があった。その墓碑に彫り込まれた命日が、松木家の系図に記された命日と完全に一致した。その子の代に庄屋職を取り上げられたことが判明したが、何の罪で職を解かれたかは多くの謎が残っている。
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 写真【狭間村の綾部家の墓域】 藩庁より庄屋職を改易となった時の庄屋、綾部常助(~安政3年没)の墓。地図

 文政の百姓一揆も杵築藩や庄屋による圧政に対する抗議の一揆ではない。従来からの郷町人や新興の商人の暴利を貪る横暴さに対する打ち壊し一揆である。杵築藩最初の一揆である両子手永のうち四ケ村の百姓が島原の松平家の領地である下沓掛に逃散した事件も、大庄屋・両子文平(姓は小串・三浦梅園の弟子の一人で、後に、郡奉行である梅園の長男の三浦主令とも親密な関係を持ち、「梅園玄語贅語刻料」募金の五人の発起人の一人である。)が私利を欲しい儘にしたことが原因となり起きた一揆であると、名指しこそ避けてはいるが、重光直愿は「重光家家史」のなかで書き残している。
 両子文平と家族は追放処分となった。文平は郷町人の今市の溝部家の出であり、来浦手永大庄屋・小串家及び分家の浜田屋とも親族関係にある。文平の不始末により、大庄屋は全て職を解かれ茶屋となったが、来浦の小串家は郷士として処遇されなかった。三つの百姓一揆の原因をつくったのは、郷町人及び邪まな新興商人であると結論付けてもよいと思う。また、文政の一揆に関しては故意に史実を隠そうとした形跡が読み取れる。
 各町史等も編集委員等が「我が田にのみ水を引くこと」を考え、真実がねじ曲げられる場合が多い。国東町史の中でも松木家のことは抹殺されていた。横手の朝山家に嫁いでいる叔母の輝代が、「兄・清之(当時、東京家庭裁判所に勤務)が岩屋に住んでいないことをよいことに、実家の松木家の歴史を抹殺し、櫻宮に関して桜木家・鎌田家の都合の良い様に書いている。」と朝山家の親戚の元国東町教育委員長の西田小一郎に猛烈に抗議をしてやっと「岩屋の筆子塚」の記事が載ったと言う次第であった。

by f-hayashi | 2006-06-09 15:40 | 林家の歴史


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