両子の林家

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2006年 06月 10日

25 一揆の加担者か――その後の相馬太夫

    【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(4)】
 重光家史の中で、重光直愿(なおまさ・チョクゲン・林来輔は父の魚彝の末弟であるから叔父に当たる)は一揆の後、農民代表百余人と杵築藩が横手で会合した時、年少であったが記録役を勤めたと書き残している。首謀者を出した赤松村・横手村・岩屋村の庄屋は職を解かれた。重光宗家二十三代・景行(立平)は隠居して、山口村庄屋職は長男の直幹(大策)に譲っていたが、公命により赤松村に住み、赤松・岩屋両村の庄屋を兼務した。
 重光景行は重光魚彝(うおつね・ギョイ)の弟であり、林来輔の兄である。一揆に加担した従弟の松木相馬太夫の監視役でもあった。赤松から馬に乗って松木家に来ると、座敷牢に入っている筈の相馬太夫がいないことが度々であったとのことである。相馬太夫は小柄ではあるが、大変な美男子であった。座敷牢を抜け出し仲の良い女性の所に行っていた。それも一人や二人位でなかったそうである。笑い話の様であるが、私の祖母・捷(日清戦争の戦捷記念の年に生まれたので、捷と名付ける。)に似た女性をみると、相馬太夫の子ではなかろうかと親族の人は思ったらしい。実際に杵築の造り酒屋の娘に子を産ませている。親は名家の人の子だからと大事に育てたとのことである。
d0069627_1841223.jpg 松木家屋敷跡と屋敷内に残る鳥居 国東町岩屋
 相馬太夫の父・丹波守清軽が後妻を貰い妹が生まれるが、後に清軽が死ぬと後妻と妹を追い出した。腹違いの妹は後に日出の大店の嫁となる。国東櫻八幡宮宮司職だけではなく多くの神社の宮司をしていたので、一年の内大半は岩屋村の家にいなかったそうである。神に仕えていたのか女の所にいたのか知る由も無いが、相馬太夫は自由奔放に生きたのである。しかし、家が提灯の火の不始末により焼け、多くの古い物が焼けてしまった。家を新築する為の木材は全て林家より山を越し運ぶ。
 重光葵・蔵兄弟は林家に唯一重光宗家の血が残っていたのを知らなかったのか、重光家と林家は松木家を先祖と敬えと言い、現在は逼塞していると語った松木家の原因をつくったのも相馬太夫であることには間違いない。相馬太夫は教育者の側面も持つ、寺小屋をして近隣の子に学問を教えている。年老いてからは「走り中風」になる。相馬太夫が急ぎ足で行った後に、かっての門弟達が戸板を持ち後ろに続いたそうである。一人息子の清敦に子が無かった為に、枕元で孫の捷が松木家の養女となることを承諾すると、目を大きく見開き亡くなったとのことである。現在、三十一名の門弟が建てた墓碑の下に眠っている。
 門弟の中に旧岩屋村庄屋小山田太湖がいる。太湖は林壮三郎・重光直愿・重光直幹その実弟荒木煥古・重光彦三郎等とは従兄弟の関係である。師の松木相馬太夫の従姉が太湖の母親であり、また松木家と小山田家は従来からの親族でもあった。後に太湖は豊崎村の初代村長を務めている。能筆家で、書家としても有名であった。
d0069627_16154999.jpg写真【前節と同じ松木家墓域から相馬太夫の祖母にあたる「大孺人小山田氏之墓」】
 慶應の百姓一揆の首謀者の岩屋村・栗林三代松の一族の者が四名・横手村旧庄屋の利行家の者が一名門弟として、相馬太夫の墓碑に名が彫り込まれている。杵築藩や庄屋に対しての不満も少しはあったと考えられるが、百姓の怒りは傲慢な郷町人をはじめ商人達にあったと考える。相馬太夫も身内を困らせる為に、一揆に参加する様な愚かな人物であったとは思えないのである。一揆の首謀者達は日頃世話になり、正直に商いをしている店は打ち壊しの対象からはずしている。庄屋家も同じであったと思う。小山田家・利行家・西田家も打ち壊されたとは聞いていない。村を治める側と農民との確執があった場合、たとえ時代が変わってもしこりが残り、寺小屋で机をならべて共に学ぼうとは考えなかったと私は思う。
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by f-hayashi | 2006-06-10 16:05 | 林家の歴史


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