両子の林家

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2006年 06月 10日

24 慶應ニ年の百姓一揆――相馬太夫こと松木清孝

   【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(3)】
 慶應二年(1866年)の百姓一揆について多くの町史等には間違った内容の記述がある。それを述べる為には、母の実家の松木家について語らねばならない。 (写真 松木家の墓域にて)d0069627_18353729.jpg
 松木(和氣)石見守清宣(室・岩屋村正小山田家女)には六人の男の子がいる。長男の佐渡守清重(室・丸小野村正麻生家女)・次男の宗継(岩之丞・松平家中の磯矢量平の養子となり、郡奉行等を勤める)・三男の嘉内(早世)・四男が重光宗家の養子となった頼之(彦四郎・由齊)である。どうして重光宗家というかと言えば、分家が赤水村庄屋の重光家であり、また赤水重光家から川原村庄屋と吉木村庄屋をだす。それと白木原村庄屋も分家である。五男の煌(籌左衛門)は松平家中の八田浪江の養子となり、後に郡奉行等を勤める。六男は丹波守清軽である。長男の清重に子が無かった為に、末弟の清軽が松木家を継ぐ、妻は神職の生地家の娘である。その間に生まれたのが松木家三十一代相馬太夫こと和氣清孝である。妻は岐部村正有永家女の加恵子である。有永家と医家の古城家及び医家の山下家は親族の関係であった。現在有永家は血筋が絶え、家屋敷は「国見町ふるさと展示館」となり公開されている。血脈は無いが家を継いだ人は大分市で医師をしている。清孝と加恵子の子がトシ(後、林恒策の妻となる)と清敦である。
 松木相馬太夫(清孝)は若い時、江戸と京に遊学する。郷里に帰り神職の家を継ぐが、慶應の一揆の時に刀を差し加わる。後に捕まり座敷牢に入れられる。一揆の時の郡奉行は磯矢匡であり、清孝と匡は従兄弟の関係である。岩屋村庄屋小山田家は祖母の出た家であり、伯父重光彦四郎と玖美子の三女・屋於子(柳子)の嫁ぎ先でもある。どうして一揆の首謀者の岩屋村栗林三代松や赤松村吉助等が小山田家の屋敷に忍び込み、奉行と庄屋の話を全部書き取り強訴をするのであろうか。これは作り話である。一揆の標的は藩や庄屋では無く、邪まな商人と極一部の庄屋であると考えられる。一揆の被害にあった庄屋は麻田村綾部家・瀬戸田村中島家・吉松村後藤家(本林三郎兵衛藤美の妻の実家であるから三代前の親戚)・中園村小俣家等である。特に被害を蒙ったのは郷町人等の商人が多い。d0069627_16121552.jpg
 相馬太夫は私の母・三千代の曾祖父である。一揆に同調して参加したと伝えられている。一揆の首謀者達がその親族の家に忍び込み郡奉行と庄屋の話を盗み聞きなどはたしてするであろうか。文政元年の一揆と同じように真実は商人達の暴利を貪ることに対しての一揆であったと考えられる。私曲のある庄屋はそれ程多くはなかった筈である。
  写真(右)【国東町の岩屋、松木家墓域にある
 「松木清孝」(相馬太夫)の墓】
地図
 一揆の前年の慶應元年(1865年)の惣代年番職・林来輔と相馬太夫及び磯矢匡は父方の従兄弟の関係であり、岩屋村正小山田氏の妻・屋於子は来輔の実妹である。林来輔が慶應二年も惣代年番を重任していたかどうかは分からないが、本当に庄屋が百姓の恨みの対象ならば、杵築藩の庄屋の代表を重任した林家が一番に一揆の打ち壊しに遭う筈であるが、一揆の被害は一切無かった。しかし林家の口伝で、万一の場合に備え当主の来輔は屋敷に残り、女・子供達は屋敷の向かい側の片平山に避難させたそうである。
d0069627_1691080.jpg写真(左)【綾部敦 著『自由の彼方へ』表紙 …… 慶應2年におきた、国東の農民一揆を主題にした歴史小説。2002年1月、文芸社 発行。】
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by f-hayashi | 2006-06-10 16:12 | 林家の歴史


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