両子の林家

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2006年 06月 11日

23 ターハン・秋吉忠氏から聞いたこと

    【両子林家の歴史………… 三 書き足しの章(2)】
写真↓ 両子の徳代橋付近(もと林家の水車小屋があった)
d0069627_16175499.jpg 両子の下分の秋吉忠氏から色々な林家の話を聞く。忠(ターハン)は異相の持ち主であった。普通の人は後頭部が扁平かでていて頭頂部は平らであるが、ターハンは頭頂部が突き出ていた。大柄な男で、週のうち一・二回は我が家に来ていた。強烈な個性の人物だった為に父はあまり相手をしなかった。父は家柄の話をする人を嫌っており、私に「人柄が家柄をつくる」とよく話した。林家に誇りは持っているが、出自に対しての他人の品定めは一切しなかった。しかし母と私はよくターハンと話をした。ターハンの秋吉家はかっての庄屋の秋吉家の一族の家である。ターハンは家柄に特に詳しく、東国東の家々の格の上中下をいつも話した。我が家の事を「シャーモト」と呼び、東国東でシャーモトの右に出る家は無いとよく話した。今両子寺の檀家であると威張る家があるが、昔はシャーモトとか秋吉家とか極一部の家で多くは坊檀家であったと話した。ターハンはお世辞を言う様な類いの人物ではなかった。村人は零落した林家を馬鹿にすることは出来なかった。そんなことをしたらターハンが黙ってはいないことを皆知っていた。
d0069627_1828764.jpg 写真 故・秋吉忠氏宅(歳神社の隣)→
 次に暢の時代に、下男(男衆・オトコシ)の土谷学氏が妻のスエがありながら、未亡人のヨシコ(武蔵の出・両子吉水氏に嫁す)と良い仲になり、暢は二人を一時林家に匿う。後に二人は福岡の炭坑で働き、暫くして両子に帰る。暢は我が家の田をつくらせ、車屋に住まわす。私が子供の頃ヨシコは孫を連れていつも我が家に来ていた。学とスエの子の正行の嫁はヨシコの姪であり、武蔵の麻田の出身である。正行氏も子供の時、我が家でよく過ごしたのであろう。大人になっても懐かしいのか、用事も無いのに何か用事をつくり、我が家によく来た。
 一統の林清氏とその姉達も我が家で育つ。父親が戦死した為に生活も苦しく、母親は農作業を一人でしなければならず、とても子供の面倒をみることが出来なかった。林家も零落したとはいえ、まだ周囲の家よりは裕福であった。後に姉達は里帰りをするとかならず、オシャモトのおじさんには大変お世話になったと暢の位牌に詣ったものである。
 現在、庄屋は藩の末端組織で農民を搾取した代表と見なされているが、それは一面的な見方であると考える。多くの庄屋は教養もあり、その家その家の誇りを持ち人格的にも優れた人が多かったと思う。上にも媚びず、下の者が困っていたら手を差し伸べていた庄屋のほうが多かったと考えられる。日出の木下領等の庄屋とは違い、杵築本藩領の庄屋は士分待遇であり、農民と同じとの意識ではなく、民をいたわる気持ちがあったと思う。

 【参照】日出藩での庄屋の苦悶は、中山 善之先生のたらい廻しされた 日出藩 大庄屋物語が参考になる。なお中山先生は、大分県下に唯一現存する藩校建造物、致道館(JR 日豊線「暘谷(ヨウコク)」駅から徒歩3分)の館長として金・土・日に在館。
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by f-hayashi | 2006-06-11 16:22 | 林家の歴史


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