2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 ←写真 宗生とタヅ(大正の初期か) 宗生の妻・タヅは旧野辺村庄屋佐藤家の娘である。母は旧士族の長谷部家の出である。二人を結婚させたのは宗生の兄・暢とタヅの兄・實(みのる)である。二人の兄同士は東京での学生時代無二の親友となり、親戚になろうと決めて二人を結婚させた。宗生は背の高い男前であったがタヅは器量はよくなかった。宗生があまりに遊ぶので誰かがたしなめたら、当時美人で有名だった九条武子みたいな美人が妻なら遊ばないとうそぶいたと言う。 宗生は広島高師を卒業して、一時久留米の旧制中学校の数学教師となるが、ほどなく教師をやめて軍属として大陸に渡り、妻子は朝鮮の釡山に残して、満州で亡くなる。タヅの所に将校と二人の軍人が迎えに来て汽車で現地に行き、遺骨を引き取り両子の林家墓地に埋葬する。何の仕事でまたどうして死亡したのかタヅは話さなかった。 写真 林 宗生の没後に写した家族写真 → 私の子供の頃、タヅは墓参りによく家に来た。私のことを俊坊と呼び可愛がってくれた。年寄り好きな性格だったので側にいきよく昔の話を聞いた。タヅは「俊坊は色が黒いがその訳を知っているかえ」と聞いたが、分からないと答えるとタヅはその訳を次の様に話した。「昔、林の家に杵築の若い御殿様が立ち寄った。娘がお茶を出すと、あまりに奇麗だったので御殿様が側室にもらいたいと言ったが、林の御先祖様は御手打ち覚悟でそれを断った。御殿様は大変怒ったがお供の重臣が殿様を諫め事なきをえた。御殿様が帰った後に御先祖様は仏間にいき願(ガン)をかけた。今後一切女は生まれませんように、もし生まれたとしても色の黒い器量の悪い女が生まれますようにと仏様に祈った。しかし、その後も林の家には美人が生まれてきたが短命な女が多かった。林の系統は女が少なく男が多いが男の子は皆色が浅黒い。それと、この林の家は同じ庄屋といっても私の家とは格式が違うのよ。」と語った。タヅは大分第一高等女学校出の当時としては教養ある女性であった。↑ 写真は理の姉の妙子(杵築船部の阿部家に嫁すが数え年29で三人の子を残し夭折) 実家の旧庄屋佐藤家も古い歴史をもつ家である。タヅが言った、「俊坊の家は違うのよ。」と言う意味が分からなかった。私が高校時代に下宿した親族の福村家でも、当主の福造が酒を飲むと、庄屋の三浦家の出である妻・常子に「三浦・三浦威張るなこのヒネ庄屋が、林とは格が違う」と言うのを何度も聞いた。タヅの実家の佐藤家は頭の良い家系である。甥に東京帝大中退者や広島大の朱子学の元教授もいる。その弟の經雄は秀才の名が高い。又、福造は杵中の二十期で、後に東京の松平子爵家の書生をしながら学んだ人であった。
by f-hayashi
| 2006-06-11 19:39
| 林家の歴史
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