2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 ↓ 写真 林家に残る刀剣の鍔(つば)や柄(つか) …… 刀身は宗生が売り飛ばしてしまった! 林家の逼塞の原因は暢だけではない、弟の宗生が暢以上である。宗生は旧制杵築中学校の時、考えられないことであるが女郎屋に入り浸っていた。後の東京理科大学に行き卒業したかどうかは解らないが陸軍に入り主計将校となるが、芸者の置屋や検番から小倉の連隊に通う様な人物であり、狩野をはじめ応挙や竹田等々高値で売りさばける書画骨董は凡て持ち出し、奥平公より拝領の刀等刀剣類も売り払い、その金は芸者遊びに全部使ってしまった。林武生氏も私が子供の頃よく遊びに来てこう話してくれた。「ご隠居(壮三郎)は私を可愛がってくれた。武生お前は古いものが好きだろうよいものを見せてやると言い、奥に行き掛け軸を持ってきて私の前で広げると中身の竹田の画がなかった。また宗生のやつが持っていったと悔しがった。宗生さんはどれだけ持ち出したか知れない。」と語った。三浦義次も死ぬ前に、宗生叔父から命ぜられて両子に行き盗みだしたと話してくれた。 私の母方の祖父・松木哲之が官営八幡製鉄所に勤めていた関係で、母・三千代の家族は小倉に住んでいた。或る日その家に宗生から手紙がきた。手紙の書きだしに「宗生の命は今宵かぎりでございます。」と書いてあるが、詰まる所芸者遊びをして金が無くなり桶伏せにあっての金の無心であった。祖母の捷は宗生の従妹であり宗生の性根は昔から知っており反対したが、祖父の哲之は公務員で真面目な人であったので、わざわざ桶伏せになっている芸者の置屋迄金を持っていった。哲之としては義理を考えたのであろう。 土谷学氏(かっての下男)も御隠居様に頼まれて何回小倉にお金を持っていったか分からないと話してくれた。壮三郎も金が無くなると山を売って金をつくった。壮三郎は大変厳しい人であったが、父・宗弼を早く失い数え年十六で庄屋の家督を継いだこともあり、暢・宗生に甘かったのであろう。 林宗生は最後には主計将校の立場を利用して、軍の金を使い込み憲兵に追われる羽目に陥るが、長崎県・陸軍大村連隊の連隊長に匿われた為に憲兵も手が出せず、重営倉送りは免れる。連隊長のとりなしにより罪にはならず陸軍をやめる。しかし使い込んだ軍の金は林家より支払う。今も家に連隊長よりの手紙が残っている。母の三千代は時々私に「宗生さんはこれだけの事をしてきて、子孫は医者ではあるが何不自由なく暮らしているのに比べ、どうして私達だけが一生苦労しなければならないのか」と話す。 軍を辞めた宗生は妻子を両子に残し広島高等師範に行く。宗生が広島高師にいっている間、妻のタヅは両子にはあまり永くはおれず、姉・初雪の嫁ぎ先である朝来弁分の医師の手嶋鼎の家に子を連れて移り住む。後に、鼎夫婦には子が無かったので、宗生の一人娘の利子を手嶋家の養女とする。 写真 利子の養父、手嶋 鼎が開業していた医院跡。地図
by f-hayashi
| 2006-06-11 20:16
| 林家の歴史
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