2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 一統の林武生氏も暢さんと藤子さんが別れた理由が判らないとよく私に話してくれた。二人は非常に仲が良く、夕方ふたりは寄り添ってよく散歩をしていた。暢さんは肩から手風琴をさげていた。その当時田舎では男と女が寄り添って歩くということは無く、若い自分は羨ましくて仕方がなかったと語った。 ![]() 藤子は高齢の父・直愿の借金を少しでも手伝いたいとの気持ちで、教師になりたいと言ったと思う。自分が嫁いだ家は数代関係ある家であり、血が濃い程実家の内情は話せなかったと思う。当時の林家では明治期の壱千円は大金ではあるが無理な金額とは思われないが、それ迄の援助や藤子の結婚費用も全部壮三郎が出し、壮三郎は重光家の負担は一切望まなかった。今残っている結婚式の費用控でも、藤子の着物等嫁入り道具は全て三越より取り寄せ、杵築より人力車三台を連ね嫁いだこともあり、実家の借金のことは口に出せず家を出たと思われる。 重光家の女は、あまり器量はよくないが賢い人が多い。藤子も美人ではないが、思いやりがあり、よく気のつく性格で知的であったらしい。暢は藤子の残していった着物を着て座敷に籠り、誰がいっても話もしなかったそうである。ただお気に入りの従妹の捷(私の母・三千代の母、後に母方の叔父で岩屋の神職松木家三十二代清敦に子が無かった為に松木家の養女となる。)だけは例外であった。暢の妹のイネが私の母に「兄さんは東京の吉原大学出よ」と話していた様に東京での学生時代は放蕩三昧であったが、本当は純粋な人物であったであろう。 ![]() ![]() ← 写真 捷(左)と美子(壮三郎の季女) #
by f-hayashi
| 2006-06-11 20:44
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 ![]() 祖父・暢(とおる)は壮三郎の長男として生まれ、大分県内に旧制中学がまだ一校しかなかった時代に大分中学校に行き、卒業する年の数学の校内試験の時、友人である医者の息子に試験中に答を教え、見つかるのは当然だが見つかり、教師から謝れといわれたが謝るどころか同級生を扇動し、「例え試験とはいえども解らない者に教えて何が悪い」と学校に盾突き試験をボイコットし、その結果卒業年度に退学処分となる。その後、暢は東京へ出て二松学舎に入り、東京理科大学の前身にいく。暢は理数系に特に強かったそうである。父・理も兄・祐輔(大分上野ケ丘高校の時、数学は東大クラスと担任より言われた。) 弟の龍介も数学に強い、私だけ例外で高校時代は数学は欠点すれすれであった。 写真 松成イシの小学校修了証書 (武蔵町成吉・厚田家から通学。後、両子の林家に嫁ぐ) ↓ ![]() ![]() マキ(ヤツ)等三姉妹は旧綱井村庄屋萱嶋家の出である。尚、成吉の旧家川嶋家(嶋屋)と厚田家木元家は重縁関係にある。林暢はイシの従兄弟が当主の嶋屋へよく馬に乗って遊びに行った様である。嶋屋の出である大谷田鶴さんや綾部敦氏の母(厚田家の出)は恰かも昨日のことの様に、暢についての話をしてくれた。 暢は壮三郎に似て馬好きであった。よく馬に乗って方々に出かけていた。文殊仙寺の秋吉老僧も立派な馬に乗った品の良い人だったと母・三千代に話したとの事である。重光直愿の家に出雲大社の千家宮司が来たことがある。中々会えない人なので事前に杵築迄来る様にと連絡があり、馬に乗って行くとその姿を見た宮司は、どちらの方ですか立派な方ですねと直愿に言ったそうである。年をとると乃木大将に似ていると言われたそうである。暢が普通の人物だったら林家も逼塞せず、私の父母も苦労せずにすんだと思う。 略系図 【 [ ] 内は実家の旧姓 → は養子先 】 ┌──┬────┴─── ……… ─┐ =[秋元 氏]【没】 源子 | =[重光] 順子【没】 林 恒策≪=[松木] トシ 林 壮三郎≪≠[矢野 氏]【離縁】 │ =[宮崎 氏] =[隈井] かぢ │ │ [林→松木] 捷==[野村→松木] 哲之 │ ┌───┴───┬──…… ┌──────┴────┐ 松木 清之 [松木→林] 三千代* | ≠[重光] 藤子【離縁】 │ 林 暢≪=[松成]イシ 林 宗生==[佐藤] タヅ │ =[高原]セツ(ソウ) │ ┌─┴───────…… [林→手嶋] 利子 林 理==[* 松木] 三千代 ┌─┴──────┬──────┐ 林 祐輔 [林→滝口] 俊介 林 龍介 #
by f-hayashi
| 2006-06-11 20:40
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 ↓ 写真 林家に残る刀剣の鍔(つば)や柄(つか) …… 刀身は宗生が売り飛ばしてしまった! ![]() 私の母方の祖父・松木哲之が官営八幡製鉄所に勤めていた関係で、母・三千代の家族は小倉に住んでいた。或る日その家に宗生から手紙がきた。手紙の書きだしに「宗生の命は今宵かぎりでございます。」と書いてあるが、詰まる所芸者遊びをして金が無くなり桶伏せにあっての金の無心であった。祖母の捷は宗生の従妹であり宗生の性根は昔から知っており反対したが、祖父の哲之は公務員で真面目な人であったので、わざわざ桶伏せになっている芸者の置屋迄金を持っていった。哲之としては義理を考えたのであろう。 土谷学氏(かっての下男)も御隠居様に頼まれて何回小倉にお金を持っていったか分からないと話してくれた。壮三郎も金が無くなると山を売って金をつくった。壮三郎は大変厳しい人であったが、父・宗弼を早く失い数え年十六で庄屋の家督を継いだこともあり、暢・宗生に甘かったのであろう。 ![]() ![]() 軍を辞めた宗生は妻子を両子に残し広島高等師範に行く。宗生が広島高師にいっている間、妻のタヅは両子にはあまり永くはおれず、姉・初雪の嫁ぎ先である朝来弁分の医師の手嶋鼎の家に子を連れて移り住む。後に、鼎夫婦には子が無かったので、宗生の一人娘の利子を手嶋家の養女とする。 写真 利子の養父、手嶋 鼎が開業していた医院跡。地図 #
by f-hayashi
| 2006-06-11 20:16
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 ![]() 宗生の妻・タヅは旧野辺村庄屋佐藤家の娘である。母は旧士族の長谷部家の出である。二人を結婚させたのは宗生の兄・暢とタヅの兄・實(みのる)である。二人の兄同士は東京での学生時代無二の親友となり、親戚になろうと決めて二人を結婚させた。宗生は背の高い男前であったがタヅは器量はよくなかった。宗生があまりに遊ぶので誰かがたしなめたら、当時美人で有名だった九条武子みたいな美人が妻なら遊ばないとうそぶいたと言う。 宗生は広島高師を卒業して、一時久留米の旧制中学校の数学教師となるが、ほどなく教師をやめて軍属として大陸に渡り、妻子は朝鮮の釡山に残して、満州で亡くなる。タヅの所に将校と二人の軍人が迎えに来て汽車で現地に行き、遺骨を引き取り両子の林家墓地に埋葬する。何の仕事でまたどうして死亡したのかタヅは話さなかった。 ![]() 私の子供の頃、タヅは墓参りによく家に来た。私のことを俊坊と呼び可愛がってくれた。年寄り好きな性格だったので側にいきよく昔の話を聞いた。タヅは「俊坊は色が黒いがその訳を知っているかえ」と聞いたが、分からないと答えるとタヅはその訳を次の様に話した。「昔、林の家に杵築の若い御殿様が立ち寄った。娘がお茶を出すと、あまりに奇麗だったので御殿様が側室にもらいたいと言ったが、林の御先祖様は御手打ち覚悟でそれを断った。御殿様は大変怒ったがお供の重臣が殿様を諫め事なきをえた。 ![]() 実家の旧庄屋佐藤家も古い歴史をもつ家である。タヅが言った、「俊坊の家は違うのよ。」と言う意味が分からなかった。私が高校時代に下宿した親族の福村家でも、当主の福造が酒を飲むと、庄屋の三浦家の出である妻・常子に「三浦・三浦威張るなこのヒネ庄屋が、林とは格が違う」と言うのを何度も聞いた。タヅの実家の佐藤家は頭の良い家系である。甥に東京帝大中退者や広島大の朱子学の元教授もいる。その弟の經雄は秀才の名が高い。又、福造は杵中の二十期で、後に東京の松平子爵家の書生をしながら学んだ人であった。 #
by f-hayashi
| 2006-06-11 19:39
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 林家は暢・宗生の兄弟により食いつぶされ没落の一途をたどる。父・理は、旧制国東中学校にいくが学資が続かず中途退学する。現状を見かねた荒木道は両子に来て、理に学問を本当にしたいなら馬車引きでも何でもして学資を稼げと言った。しかし、道は理をはじめ兄弟の学資を援助する。理は少しでも援助額を和らげる為に官費の学校に入る決心をし、熊本逓信講習所に入り卒業すると一時郵便局で働き学資を貯めて東京へ行き、逓信省高等官吏練習所(官練)に行き勉強する。理は戦争で二度中国に行く、一回目は召集により、二回目は軍属として再度大陸に行く。 ![]() 没落により苦労した為か理は短気な性格と我儘な性格を自分の内に封じ込めたと思う。私の知っている父は穏やかな性格で人と争うこともなく、一度も他人の批判や悪口を口にした事がなかった。父・暢と叔父・宗生とは正反対にタバコも大酒も一切やらず、ギャンブルなどもってのほかであった。私達兄弟が学生の時麻雀をすると聞くと、私たちに麻雀は亡国の遊戯であると戒め、学生の本分を忘れてはならないと意見した。 ![]() 内地に帰ってからは逓信省東京中央電信局外信課に勤務する。父・理の話ではすでに米国が日本に原子爆弾投下を検討しているとの情報が、中立国の南米アルゼンチン(もしくはチリ)からもたらされていた。既に戦争に負けると分かっていたと話した。大東亜戦争に敗れ終戦をむかえると、暢は反対したが郷里の両子に帰り農業をする。 ![]() #
by f-hayashi
| 2006-06-11 19:31
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【壱 両子林家歴代の章】 ↓ 松木 哲之 ![]() ![]() 三千代は小倉高等女学校を出て、三菱銀行小倉支店に入行し、次に戸畑支店に移る。哲之は終戦とともに国東に帰るが、三千代は三女の之江が女学校を卒業するまで小倉にとどまり、後に国東に帰る。理と結婚して慣れない農業をする事となる。 ![]() 暢も三千代を理の妻にむかえた事は嬉しかったと思える。秋になると山に行き、栗を拾ってきて「ミチイドンこれを食え」とすすめたそうである。しかし、三千代は暢に「お父さん、ミチイドンとは何事ですか三千代と言って下さい。こんな虫栗は食べられません」と言ったそうである。若い時から威張っていて周りが皆気を使っていたが、暢は以外と歯に衣着せぬ人を好んだと思う。長男の祐輔が産まれると大層喜び、近所の人に「ボンチができた」と言って廻ったそうである。一代自由気ままに生きた人ではあるが、家の歴史を考え林家の男子誕生を誰よりも喜び程なくして亡くなる。 父と母の教育方針は違っていた。父は脇目も振らず勉強せよと言ったが、母は松江藩主の松平不昧公(治郷)の教えに感銘しており、或る程度の脇目も必要な事であると言った。父も母も子供には体に資本をつけると言い、自分達を犠牲にして三兄弟の教育をした。しかし、我々兄弟は万分の一も親の期待に応えることが出来なかった。林家の歴史で母と男の子が凡そ三百年前に両子の地へ来て住み、代々金銭面の苦労は無く暮らしてきて、運の悪さが悲しい事に父と母の代に集中して苦労の連続であった。 長々と林家の歴史を書いたが、まだ色んな話が伝えられている。先祖代々林家当主は両子寺の無明橋を下馬することなく騎馬で渡ることを許されていたとか、おツルとヤゴサの下男下女の笑い話や、夜屋敷を抜け出し朝帰りをする下男の話等々あるが割愛する。↓理と三千代の婚礼写真(昭和21年) ![]() 以上、「壱 両子林家歴代の章」として、両親の代までの伝聞を述べた。次からは5節(仁・義・礼・智・信)に分けて、ここ豊後までたどりついたという、赤穂浪士ゆかりの者という先祖からの言い伝えを再考してみたい。 弐 赤穂浪士ゆかりの章 #
by f-hayashi
| 2006-06-11 19:09
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
![]() ここから、あらためて宝永頃両子の地に来た母と男の子及び大石家縁の者との口伝から林家先祖を推理すると、大石内蔵助と可留との間に生まれた男の子が母の可留と共に何かの伝てを頼り両子の地に来て住んだと私は考えてみた。 可留(お軽・阿軽・おかぢ・おかや・と色々な名前の説があるが、一応可留とする。) 生家は一文字屋とか二文字屋とか出版業を営んでいたとも、古道具屋をしていたともいわれており、京都島原中ノ町の娼家の女だったという説もある。京都紫野の瑞光院の過去帳に「清誉貞林法尼・正徳三年癸巳(1713年)十月六日年二十九往生・二条京都坊二文字屋可留・久右衛門妾也」としるされており、墓は下京の上善寺にあるとのことであるが、はたして本当にそこに可留が眠っているのであろうか。 赤穂義士研究の第一人者であった三田村鳶魚は「本当の義士の関係者の子孫は人知れずひっそりと暮らしており、義士の関係者とか子孫であると声高らかに言っている人達は実に騙りが多い。」と述べている。かの俗書で有名な「祇園可音(金)物語」の内蔵助の娘を騙る清円尼(滝沢馬琴も「玄同放言」にしるしている。)、堀部弥兵衛の娘を騙った妙海尼(堀部安兵衛武庸の妻を騙る)等々である。討ち入りで赤穂浪士が有名になればなるほど関係者の子孫であると騙り、それに乗っかろうとするのが日本の庶民の考えである。武士(もののふ)の血が流れている人は決してそんなことを言わないと三田村鳶魚は言っているのであると思う。 義士の討入りを再就職運動であると書いた義士研究家もいるが、明治以降ましてや戦後の視点で江戸期迄の誠の武士の心を推し量るからそこに無理が生じるのである。討ち入り後四十六年目の寛延元年(1748年)八月に竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作による人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が大坂の竹本座で上演され、また歌舞伎や講談により史実と違ったりかけ離れたりして虚構が一人歩きした事柄が多い。 可留は京都二条寺町の二文字屋次郎左衛門の庶子であったというのが真実であろう。元祿十五年(1702年)四月十五日・大石内蔵助は嫡子主税を残して妻子を離別、但馬豊岡京極家の家老である岳父石束源五兵衛毎公のもとへ返している。山科の屋敷には内蔵助と嫡男主税が残った為に大石家親族の旧赤穂浅野家家臣の進藤源四郎・小山源五右衛門が身の回りの世話をさせる為に、京美人の評判が高かった町家の娘・可留に小間使兼側女としてはいらせた。当時可留は十八歳・内蔵助は四十四歳・主税は十五歳であった。 可留が内蔵助のもとで暮らしたのは、わずか半年たらずであった。大石内蔵助等はその年(元祿十五年・1702年)閏八月一日・山科から京都四条河原町金蓮寺塔頭梅林庵に仮寓する。同九月に大石主税は間瀬久太夫・大石瀬左衛門らと京を出発して、九月二十四日に江戸に着いている。同十月七日・大石内蔵助は潮田又之丞・近松勘六らと江戸に向かって京都を発つ。三条大橋まで見送った可留はその時既に内蔵助の子を宿していたという。 ![]() ![]() #
by f-hayashi
| 2006-06-11 17:50
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【両子林家の歴史……弐 赤穂浪士ゆかりの章(義)】 史実は大石内蔵助と可留の子となっているが、私は主税と可留との間の子と思う。こんな事さえなければ、主税は内蔵助の後に赤穂浅野家・千五百石取の国家老の家を継ぐ身であった。そのことを不憫に思い、討ち入りが成功しても失敗してもそこには死しか無く、子を持つ男親として、是非も無きことではあるが、十五歳で死ぬであろう嫡男・主税のことを考えるとやりきれない思いに苛まれたと思う。ここで主税の血を絶つことを忍びず、可留に言い含め主税の子を宿させたと思う。虚構に惑わされた人や熱狂的な赤穂義士信奉者は、馬鹿な事を言う者もいるものだと思い、あくまでも主税は十六歳で汚れも知らず死んでいったと考えるであろう。討ち入り直前の十二月十二日付の小野寺十内が妻の丹に送った書状のなかに、主税の一首「あふ時はかたりつくすとおもへども わかれとなればのこる言の葉」が記されていた。主税は元祿十六年二月四日・伊予松山城主松平隠岐守の江戸屋敷で切腹・行年十六・介錯人は波賀清太夫であった。 ![]() 大石内蔵助と妻・りくとの間に長男の松之丞(元服して大石主税良金)・長女くう・次男吉千代・次女るりがいる。りくと主税を除く子供たちを石束家に帰すが、その時りくは身重の身であった。内蔵助は終に見ることが出来なかったが、石束家で産まれ大三郎(代三郎)と名付けられる。長女くう(久宇)は十五歳で早世した。次男吉千代はのちに吉之進と名乗り、連坐を逃れる為に但馬で仏門に入り祖錬元快と名乗る。宝永六年(1709年)に十九歳で亡くなったとも実は生きていたとも言われている。次女・るりは後に広島の浅野家家臣の千石取りの浅野長十郎之信に嫁している。三男の大三郎は丹後の国宮津領熊野郡寸(須)田村に住む眼科医・林文左衛門の養子とするが、大赦後の正徳三年(1713年)大三郎は十二歳の時、浅野家本家である浅野安芸守吉長に千五百石で召し抱えられ、母のりくと共に広島へ移り住む。尚、丹後の宮津にいた時の領主は奥平公であり、後に享保二年(1717年)奥平昌成公が宮津より豊前中津十万石に転封となった。 仏門に入った次男の吉之進が亡くなったとされる宝永六年(1709年)は、五代将軍綱吉薨去による大赦が行われた年であり、また可留が亡くなったとされる正徳三年(1713年)は大三郎が浅野安芸守吉長に召し抱えられた年でもある。瑞光院の過去帳に久右衛門妾可留と書かれているとのことであるが、京都の瑞光院は江戸の泉岳寺・赤穂の花岳寺及び高野山悉地院と並び赤穂浅野家とは縁の深い寺である。宝永六年と正徳三年は謎に包まれた年であると私は思う。久右衛門とは池田久右衛門という内蔵助の変名であり、母クマの生家である備前岡山池田家の家老池田出羽守由成の姓をとり、池田久右衛門と名乗ったのである。 林(本林)家先祖が大石家縁の者と騙り、家紋を右二ツ巴にしたりして家の格を上げることに汲々としたのであろうか、どうも私はそうとは思えないのである。 ![]() 写真 両子の歳神社に奉納された石灯籠。「神燈」とある右側面に奉納者の「本林兵介藤直」、左側面に「寶暦丁丑林鐘」と刻される。「林鐘」は6月の別称で、丁丑は宝暦七年(1757)。 #
by f-hayashi
| 2006-06-11 17:35
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【両子林家の歴史……弐 赤穂浪士ゆかりの章(礼)】 ![]() ![]() 写真 左上は兵介と母の戒名、右は権四郎の戒名を記した位牌。 本林兵介藤直は後に豊前中津領主奥平公より召され仕官する様に言われたが、固辞し帰農する道を選ぶのはなぜだろうか。また松平公より側室にくれとの話を命をかけて拒否するのはなぜだろうか、お供の重臣が田舎の一庄屋の肩を持ち、お殿様を諫めたのはなぜだろうか。側室問題は兵介藤直か三郎兵衛藤美(左介)の娘と考えられるが、先祖は松平公に「林(本林)家の娘は、たとえ御殿様であろうと妾奉公はさせません。」と言い切ったとのことである。そのことに御殿様が怒り、その殿様を重臣が諫めたと伝わっている。 ![]() 思うに仕官の固辞及び側室の要求への拒否は、私達の先祖である「母と男の子」の歴史に起因していると思う。主家の為・家の為・名誉の為・忠義の為等々を重んじ、平気で人を斬り、また自ら腹を切る様な武士の世界を嫌い、又それらのことにより、多くの女・子供達が蔭で苦しみ嘆く様なことを二度と味わいたくないとの思いがそうさせたと思う。農に帰すことにより、家の繁栄や栄達よりも安穏な生活の道を選んだと思われる。 #
by f-hayashi
| 2006-06-11 17:08
| 林家の歴史
2006年 06月 11日
【両子林家の歴史……弐 赤穂浪士ゆかりの章(智)】 写真 ![]() 過去、林(本林)家は庄屋職を剥奪されるような事を三度している。一つは領主である松平侯へ側室の拒否をしたことである。二つ目は先祖に睨まれて両子寺の坊主が首を吊って自殺したことである。三つ目は前章の「6 林家と重光家」に書いた様に五代・八平宗芝は庄屋の仕事を一切しなかったことである。しかし不思議なことに、絶えることなく明治五年(1872年)太政官布告による庄屋制度廃止まで両子村邑長を世襲している。 六郷満山中山本寺の足曳山両子寺は能見松平氏(ノミマツダイラ・先祖は三河の能見村の出である。)入封により、大友時代は吉弘氏が住していた関係もあり、六郷山の惣山は都甲荘屋山の長安寺であったが、両子寺が松平侯より寺領四十石・境内免許地高七石一斗四升を安堵され、松平家の最高祈願所となった。本山住職は叡山延暦寺より代々来て住職を勤めている。本寺以外に中之坊をはじめ凡そ十ばかりの坊を有していた。林(本林)家代々両子寺檀家惣代を勤め、普通は無明橋の前で下馬する仕来たりであったが、下馬すること無く騎馬で寺に入ることを許されていた。 ![]() 数年前に両子で山林の国土調査があり、その時母と私は片平山にわけ入りその石造物を捜すと、御地蔵様が存在していた。片平山にはそれ以外に林家の二基の祠があり、壮三郎は毎日欠かさずに屋敷から片平山に向かってお参りしていたと伝えられている。 ![]() 写真 上 …… 両子寺の某僧を供養するために林家がたてた地蔵 写真 左 …… 片平山の中腹にある2基の祠(手前は今宮大明神) #
by f-hayashi
| 2006-06-11 17:04
| 林家の歴史
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