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両子の林家

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2006年 06月 11日

11 重光家の女性――林 暢と藤子の仲など

              【壱 両子林家歴代の章】
 一統の林武生氏も暢さんと藤子さんが別れた理由が判らないとよく私に話してくれた。二人は非常に仲が良く、夕方ふたりは寄り添ってよく散歩をしていた。暢さんは肩から手風琴をさげていた。その当時田舎では男と女が寄り添って歩くということは無く、若い自分は羨ましくて仕方がなかったと語った。
11 重光家の女性――林 暢と藤子の仲など_d0069627_1872954.jpg しかしこの謎が解けた。重光蔵氏と蔟氏の二男で元ソ連大使をした晶氏が重光直愿の遺稿や重光家の歴史をまとめ、昭和六十一年「重光家家史」を著わしその家史を父・理に送ってきた。家史のなかに直愿は蔟宛の手紙で、学資として借用した壱千円の返済期限の到来のことを書いている。後その借金は藤子の嫁ぎ先の岡部家の好意により処理されたとある。
 藤子は高齢の父・直愿の借金を少しでも手伝いたいとの気持ちで、教師になりたいと言ったと思う。自分が嫁いだ家は数代関係ある家であり、血が濃い程実家の内情は話せなかったと思う。当時の林家では明治期の壱千円は大金ではあるが無理な金額とは思われないが、それ迄の援助や藤子の結婚費用も全部壮三郎が出し、壮三郎は重光家の負担は一切望まなかった。今残っている結婚式の費用控でも、藤子の着物等嫁入り道具は全て三越より取り寄せ、杵築より人力車三台を連ね嫁いだこともあり、実家の借金のことは口に出せず家を出たと思われる。
 重光家の女は、あまり器量はよくないが賢い人が多い。藤子も美人ではないが、思いやりがあり、よく気のつく性格で知的であったらしい。暢は藤子の残していった着物を着て座敷に籠り、誰がいっても話もしなかったそうである。ただお気に入りの従妹の捷(私の母・三千代の母、後に母方の叔父で岩屋の神職松木家三十二代清敦に子が無かった為に松木家の養女となる。)だけは例外であった。暢の妹のイネが私の母に「兄さんは東京の吉原大学出よ」と話していた様に東京での学生時代は放蕩三昧であったが、本当は純粋な人物であったであろう。
11 重光家の女性――林 暢と藤子の仲など_d0069627_1618699.jpg 藤子が家を出ていったことが暢の心に深い傷を残したことは間違いない。暢は私の母に、藤子は塩が辛いから家を出た。三番目に医師の高原家より嫁いだソウ(セツ)のことは、馬鹿助は塩が甘いからいつまでもいるとよく話したとの事である。二番目の妻であるイシ(私の祖母)のことは一切話さなかったそうである。祖父・暢は藤子を生涯忘れることが出来なかったと思える。母は一番のお気に入りの従妹・捷が松木家の養女となり産んだ長女であるから、気を許して心の内を語ったのであろう。  重光葵・喜恵の婚礼写真
11 重光家の女性――林 暢と藤子の仲など_d0069627_14295727.jpg 祖父・暢の妻は三人共杵築の出身である。上の林清美氏の母・政子も杵築出身であるからいつもわが家に遊びに来ていた。政子は「おイシさんは上品で大変美人だった。襟足が特に奇麗だったことを思い出す。私は子供だったのでいつもおイシさんの髪を触っていたら、マコちゃん(政子)も私も同じ御家中の出だからと言って可愛がってくれた。」と話してくれた。私は子供の頃、セツと政子の間に入って昔のことをよく聞いたものである。
← 写真 捷(左)と美子(壮三郎の季女)

# by f-hayashi | 2006-06-11 20:44 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

12 祖父・林 暢のこと――壮三郎の長男

              【壱 両子林家歴代の章】
12 祖父・林 暢のこと――壮三郎の長男_d0069627_1624527.jpg写真 神戸時代の林 暢(中央の人物)
 祖父・暢(とおる)は壮三郎の長男として生まれ、大分県内に旧制中学がまだ一校しかなかった時代に大分中学校に行き、卒業する年の数学の校内試験の時、友人である医者の息子に試験中に答を教え、見つかるのは当然だが見つかり、教師から謝れといわれたが謝るどころか同級生を扇動し、「例え試験とはいえども解らない者に教えて何が悪い」と学校に盾突き試験をボイコットし、その結果卒業年度に退学処分となる。その後、暢は東京へ出て二松学舎に入り、東京理科大学の前身にいく。暢は理数系に特に強かったそうである。父・理も兄・祐輔(大分上野ケ丘高校の時、数学は東大クラスと担任より言われた。) 弟の龍介も数学に強い、私だけ例外で高校時代は数学は欠点すれすれであった。  写真 松成イシの小学校修了証書
 (武蔵町成吉・厚田家から通学。後、両子の林家に嫁ぐ)

12 祖父・林 暢のこと――壮三郎の長男_d0069627_15101615.jpg 話が脱線したが、暢は学校を出ると一時神戸ガスに就職するが、のちに両子へ帰る。前記の様に藤子を娶るが離婚する。次に嫁とするのが父・理の母イシである。イシは旧松平家御典医の松成家の娘であるが、父・松成寛齊が若くして亡くなった為に、母・マキ(ヤツ)の姉・イヨの嫁ぎ先である旧成吉村庄屋厚田家に母のマキ(ヤツ)と子供のミツ・チヨ・イシが身を寄せ、厚田家で成長して、十九歳で暢の嫁となり父等を産んで二十九歳で亡くなる。12 祖父・林 暢のこと――壮三郎の長男_d0069627_15175797.jpg長女のコクは母・マキ(ヤツ)の姉・カヨの嫁ぎ先の木元家の養女となり、その後重光義穂に嫁すこととなる。写真杵築北台 松崎邸(重光義穂とコクの娘、きよ の嫁ぎ先)
 マキ(ヤツ)等三姉妹は旧綱井村庄屋萱嶋家の出である。尚、成吉の旧家川嶋家(嶋屋)と厚田家木元家は重縁関係にある。林暢はイシの従兄弟が当主の嶋屋へよく馬に乗って遊びに行った様である。嶋屋の出である大谷田鶴さんや綾部敦氏の母(厚田家の出)は恰かも昨日のことの様に、暢についての話をしてくれた。
 暢は壮三郎に似て馬好きであった。よく馬に乗って方々に出かけていた。文殊仙寺の秋吉老僧も立派な馬に乗った品の良い人だったと母・三千代に話したとの事である。重光直愿の家に出雲大社の千家宮司が来たことがある。中々会えない人なので事前に杵築迄来る様にと連絡があり、馬に乗って行くとその姿を見た宮司は、どちらの方ですか立派な方ですねと直愿に言ったそうである。年をとると乃木大将に似ていると言われたそうである。暢が普通の人物だったら林家も逼塞せず、私の父母も苦労せずにすんだと思う。

 略系図  【 [ ] 内は実家の旧姓 → は養子先 】 
 ┌──┬────┴─── ……… ─┐   =[秋元 氏]【没】
源子  |  =[重光] 順子【没】   林 恒策≪=[松木] トシ 
   林 壮三郎≪≠[矢野 氏]【離縁】      │ =[宮崎 氏]
         =[隈井] かぢ         │
         │       [林→松木] 捷==[野村→松木] 哲之
         │         ┌───┴───┬──……
  ┌──────┴────┐   松木 清之 [松木→林] 三千代*
 |  ≠[重光] 藤子【離縁】 │
林 暢≪=[松成]イシ    林 宗生==[佐藤] タヅ
    │ =[高原]セツ(ソウ)    │
  ┌─┴───────……   [林→手嶋] 利子
林 理==[* 松木] 三千代
 ┌─┴──────┬──────┐
林 祐輔   [林→滝口] 俊介  林 龍介 


# by f-hayashi | 2006-06-11 20:40 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

13 大叔父・林 宗生の放蕩三昧

     【壱 両子林家歴代の章】
 ↓ 写真 林家に残る刀剣の鍔(つば)や柄(つか)
    …… 刀身は宗生が売り飛ばしてしまった!
13 大叔父・林 宗生の放蕩三昧_d0069627_18172380.jpg 林家の逼塞の原因は暢だけではない、弟の宗生が暢以上である。宗生は旧制杵築中学校の時、考えられないことであるが女郎屋に入り浸っていた。後の東京理科大学に行き卒業したかどうかは解らないが陸軍に入り主計将校となるが、芸者の置屋や検番から小倉の連隊に通う様な人物であり、狩野をはじめ応挙や竹田等々高値で売りさばける書画骨董は凡て持ち出し、奥平公より拝領の刀等刀剣類も売り払い、その金は芸者遊びに全部使ってしまった。林武生氏も私が子供の頃よく遊びに来てこう話してくれた。「ご隠居(壮三郎)は私を可愛がってくれた。武生お前は古いものが好きだろうよいものを見せてやると言い、奥に行き掛け軸を持ってきて私の前で広げると中身の竹田の画がなかった。また宗生のやつが持っていったと悔しがった。宗生さんはどれだけ持ち出したか知れない。」と語った。三浦義次も死ぬ前に、宗生叔父から命ぜられて両子に行き盗みだしたと話してくれた。
 私の母方の祖父・松木哲之が官営八幡製鉄所に勤めていた関係で、母・三千代の家族は小倉に住んでいた。或る日その家に宗生から手紙がきた。手紙の書きだしに「宗生の命は今宵かぎりでございます。」と書いてあるが、詰まる所芸者遊びをして金が無くなり桶伏せにあっての金の無心であった。祖母の捷は宗生の従妹であり宗生の性根は昔から知っており反対したが、祖父の哲之は公務員で真面目な人であったので、わざわざ桶伏せになっている芸者の置屋迄金を持っていった。哲之としては義理を考えたのであろう。
 土谷学氏(かっての下男)も御隠居様に頼まれて何回小倉にお金を持っていったか分からないと話してくれた。壮三郎も金が無くなると山を売って金をつくった。壮三郎は大変厳しい人であったが、父・宗弼を早く失い数え年十六で庄屋の家督を継いだこともあり、暢・宗生に甘かったのであろう。
13 大叔父・林 宗生の放蕩三昧_d0069627_16171257.jpg 林宗生は最後には主計将校の立場を利用して、軍の金を使い込み憲兵に追われる羽目に陥るが、長崎県・陸軍大村連隊の連隊長に匿われた為に憲兵も手が出せず、重営倉送りは免れる。連隊長のとりなしにより罪にはならず陸軍をやめる。しかし使い込んだ軍の金は林家より支払う。今も家に連隊長よりの手紙が残っている。母の三千代は時々私に「宗生さんはこれだけの事をしてきて、子孫は医者ではあるが何不自由なく暮らしているのに比べ、どうして私達だけが一生苦労しなければならないのか」と話す。13 大叔父・林 宗生の放蕩三昧_d0069627_20233169.jpg
 軍を辞めた宗生は妻子を両子に残し広島高等師範に行く。宗生が広島高師にいっている間、妻のタヅは両子にはあまり永くはおれず、姉・初雪の嫁ぎ先である朝来弁分の医師の手嶋鼎の家に子を連れて移り住む。後に、鼎夫婦には子が無かったので、宗生の一人娘の利子を手嶋家の養女とする。
    写真 利子の養父、手嶋 鼎が開業していた医院跡。地図

# by f-hayashi | 2006-06-11 20:16 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

14 野辺村庄屋佐藤家から嫁いだ宗生の妻

                   【壱 両子林家歴代の章】
14 野辺村庄屋佐藤家から嫁いだ宗生の妻_d0069627_1621675.jpg←写真 宗生とタヅ(大正の初期か)
 宗生の妻・タヅは旧野辺村庄屋佐藤家の娘である。母は旧士族の長谷部家の出である。二人を結婚させたのは宗生の兄・暢とタヅの兄・實(みのる)である。二人の兄同士は東京での学生時代無二の親友となり、親戚になろうと決めて二人を結婚させた。宗生は背の高い男前であったがタヅは器量はよくなかった。宗生があまりに遊ぶので誰かがたしなめたら、当時美人で有名だった九条武子みたいな美人が妻なら遊ばないとうそぶいたと言う。
 宗生は広島高師を卒業して、一時久留米の旧制中学校の数学教師となるが、ほどなく教師をやめて軍属として大陸に渡り、妻子は朝鮮の釡山に残して、満州で亡くなる。タヅの所に将校と二人の軍人が迎えに来て汽車で現地に行き、遺骨を引き取り両子の林家墓地に埋葬する。何の仕事でまたどうして死亡したのかタヅは話さなかった。
14 野辺村庄屋佐藤家から嫁いだ宗生の妻_d0069627_16241377.jpg  写真 林 宗生の没後に写した家族写真 →
 私の子供の頃、タヅは墓参りによく家に来た。私のことを俊坊と呼び可愛がってくれた。年寄り好きな性格だったので側にいきよく昔の話を聞いた。タヅは「俊坊は色が黒いがその訳を知っているかえ」と聞いたが、分からないと答えるとタヅはその訳を次の様に話した。「昔、林の家に杵築の若い御殿様が立ち寄った。娘がお茶を出すと、あまりに奇麗だったので御殿様が側室にもらいたいと言ったが、林の御先祖様は御手打ち覚悟でそれを断った。御殿様は大変怒ったがお供の重臣が殿様を諫め事なきをえた。14 野辺村庄屋佐藤家から嫁いだ宗生の妻_d0069627_16582472.jpg御殿様が帰った後に御先祖様は仏間にいき願(ガン)をかけた。今後一切女は生まれませんように、もし生まれたとしても色の黒い器量の悪い女が生まれますようにと仏様に祈った。しかし、その後も林の家には美人が生まれてきたが短命な女が多かった。林の系統は女が少なく男が多いが男の子は皆色が浅黒い。それと、この林の家は同じ庄屋といっても私の家とは格式が違うのよ。」と語った。タヅは大分第一高等女学校出の当時としては教養ある女性であった。↑ 写真は理の姉の妙子(杵築船部の阿部家に嫁すが数え年29で三人の子を残し夭折)
 実家の旧庄屋佐藤家も古い歴史をもつ家である。タヅが言った、「俊坊の家は違うのよ。」と言う意味が分からなかった。私が高校時代に下宿した親族の福村家でも、当主の福造が酒を飲むと、庄屋の三浦家の出である妻・常子に「三浦・三浦威張るなこのヒネ庄屋が、林とは格が違う」と言うのを何度も聞いた。タヅの実家の佐藤家は頭の良い家系である。甥に東京帝大中退者や広島大の朱子学の元教授もいる。その弟の經雄は秀才の名が高い。又、福造は杵中の二十期で、後に東京の松平子爵家の書生をしながら学んだ人であった。

# by f-hayashi | 2006-06-11 19:39 | 林家の歴史
2006年 06月 11日

15 わが父・林 理

                【壱 両子林家歴代の章】
 林家は暢・宗生の兄弟により食いつぶされ没落の一途をたどる。父・理は、旧制国東中学校にいくが学資が続かず中途退学する。現状を見かねた荒木道は両子に来て、理に学問を本当にしたいなら馬車引きでも何でもして学資を稼げと言った。しかし、道は理をはじめ兄弟の学資を援助する。理は少しでも援助額を和らげる為に官費の学校に入る決心をし、熊本逓信講習所に入り卒業すると一時郵便局で働き学資を貯めて東京へ行き、逓信省高等官吏練習所(官練)に行き勉強する。理は戦争で二度中国に行く、一回目は召集により、二回目は軍属として再度大陸に行く。
15 わが父・林 理_d0069627_17111350.jpg 理の子供時代の話をセツはよくした。「あなたのお父さんが子供の時は大変な癇癪持ちで我儘だった。食事の時、こんな不味いものが食べられるかと言って私に箸を投げつけた事もあった。よくここまでおとなしくなったものだ。」と話した。父は五歳で実母のイシを亡くし、小児麻痺で足の悪い叔母・イネと継母のセツ(ソウ)とに育てられる。イネは立つことが出来なかったが非常に頭の良い女性であり、林家の口伝等を母に詳しく話して聞かせた。イネがいなかったら口伝は語り継がれなかったと思う。
 没落により苦労した為か理は短気な性格と我儘な性格を自分の内に封じ込めたと思う。私の知っている父は穏やかな性格で人と争うこともなく、一度も他人の批判や悪口を口にした事がなかった。父・暢と叔父・宗生とは正反対にタバコも大酒も一切やらず、ギャンブルなどもってのほかであった。私達兄弟が学生の時麻雀をすると聞くと、私たちに麻雀は亡国の遊戯であると戒め、学生の本分を忘れてはならないと意見した。
15 わが父・林 理_d0069627_17113117.jpg 理は自慢話は殆どしなかったが、軍属で大陸へ渡った時は大尉待遇で物資が乏しい時代にも拘らずビ-ルまで飲み放題であったとよく私に話してくれた。軍属時代は給料が内地の二倍にもなり、半分は父の暢に送金した。暢は親らしいことはしなかったが、理宛の手紙の最後にはかならず「人後に落ちざるよう」と書いていたそうである。
 内地に帰ってからは逓信省東京中央電信局外信課に勤務する。父・理の話ではすでに米国が日本に原子爆弾投下を検討しているとの情報が、中立国の南米アルゼンチン(もしくはチリ)からもたらされていた。既に戦争に負けると分かっていたと話した。大東亜戦争に敗れ終戦をむかえると、暢は反対したが郷里の両子に帰り農業をする。
15 わが父・林 理_d0069627_19192445.jpg
写真 林家へ「双子旧庄屋」との住所表記で届けられた、外交官・重光葵、没後15年祭の招待状。なお南安岐では毎年、同氏をたたえる向陽祭が行われており、林 理の存命中はその招待状も届いていた。

# by f-hayashi | 2006-06-11 19:31 | 林家の歴史